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天使のような悪魔の笑顔
登場人物一覧
エルの家の近くに、小さなアリーナが建ちました。工事が終わり、ようやく興行が始まるのだと現場で働いていたおじさんが教えてくれました。
ラド・バウのようなところなのですか、とエルが訊ねたら、おじさんはニッと笑ってお尻のポケットに入れていたチケットを取り出しました。シワシワの、少し汚れたチケットです。
おじさんは、エルに言いました。見れば分かるよ、って。格闘技の試合なのは確かなようです。見れば、依頼に役立つ、かもしれません。
それに、おじさんの楽しそうな顔を見てると、エルも行ってみたくなりました。
「わわっ。すごい、人だかり」
興行初日。エルがアリーナに着くと、そこには沢山の人が。屋台も並んでて、美味しそうな匂いもします。お祭りのようだと、エルは思いました。
中に入るのは小さなエルには大変で、少し時間に遅れてしまいました。なんとか人混みをかき分け、エルはチケットに書かれていた席に着くことが出来ました。前寄りの席、です。
観客席の中心にあったのは、四角いリング。そして、真っ先に目に入ったのはコーナーからふわりと宙に飛び上がった一人の男の人。
「ぷろれす?」
名前は、聞いたことがあります。見るのは初めてでした。試合はもう始まってるようで、観客もすごく、すごく盛り上がっています。
男の人は、空中で回転しながら、マスクを被った人にキックしました。とっても身軽で、エルはすごい、と思いました。けれど、周りの人達は落胆したような声を漏らしています。どうして?
理由は、すぐに分かりました。
キックをした人が、マスクの人の髪を掴んで持ち上げたからです。マスクの人は苦しそうな表情を浮かべています。ひどい、とエルは思いました。
「立てやコラぁ!」
「あっ……」
エルは、気づきました。気づいて、しまいました。リングでひどいことをしているのは、チケットをくれたおじさんでした。おじさんは、悪者だったのです。
おじさんはコーナーまでマスクの人を引き摺っていき、ヤジを飛ばしていた観客を煽り始めました。にやにやと、怖い笑顔を浮かべています。チケットをくれた時とは、全然違う顔です。
「オラぁ!」
おじさんはマスクの人の顔をコーナーに叩きつけました。鼻から血が噴き出ています。すごく、痛そうです。何度も叩きつけ、最後にはマスクの人が、反動でリングに倒れてしまいました。
「ビートルマスク、立て、立ってくれ!」
マスクの人はビートルマスクというそうです。よく見ると、マスクはカブトムシのようなデザインです。
ビートルマスクは、リングに倒れたまま、起き上がれません。
観客みんなが、ビートルマスクに声援を送っています。頑張って、負けないで、立ち上がって。エルも、応援しました。悪い人に、負けてほしくなかったから。
「立って、ください!」
エルは、自分で思っていたより大きな声を出してました。今も、おじさんはビートルマスクに近づいています。早く起き上がらないと危ない、です!
おじさんはビートルマスクを無理やり立たせ、フラフラの彼をロープに投げつけました。
「死ねてめえォラぁ!」
エルでも知ってる技、ドロップキックです!
ロープに弾かれたビートルマスクが、おじさんのキックでまたロープ際に飛ばされました。ロープに縋り付いて身体を支えています。逆転は、無理なのでしょうか?
おじさんは追撃の手を緩めようとしません。おじさんはビートルマスクに手を伸ばし……あっ!
ビートルマスクの肘(隣の人がエルボーというのだと教えてくれました)がおじさんにヒットしました。たまらず仰け反ります。反撃、開始です。ビートルマスクは二度、三度とエルボーを叩きつけ、リングの中央まで押し戻しました。
おじさんも負けてはいません。負けじとエルボーを返しました。ビートルマスクも迎え撃ちます。一つ貰ったら、一つ返す。すごい応酬、です。
いつまでも続くように思えたエルボー合戦でしたが、遂に終わる時が。おじさんがグラついたのです。ビートルマスクはその隙を見逃しません。彼はおじさんを抱えあげると、頭から垂直にリングに叩きつけました。
パイルドライバー、というそうです。
すごい試合だったと、思いました。けれど、エルの胸はもやもやしてます。
気づいたら、エルは担架で運ばれていったおじさんの後を追いかけてました。
「見たか、大盛況だったな!」
そこは選手の控室のようで――おじさんは、あの時と同じ顔でした。
「分かったから休め。って、ここに入っちゃダメだよ、きみ!」
なんと、そこにはビートルマスクもいました。おじさんと笑顔で話しています。
エルは驚いて、ポカンとしました。
「あー、実は仲良しなんだ。内緒だぞ」
エルの頭の中は、ぐるぐるでした。でも、不思議と胸はもやもやしていません。
それからしばらくして行われた試合では……エルはこっそり、おじさんの応援をしました。