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大人が幸せであれば良かった
登場人物一覧
死なないでと誰かが囁き、僕は閉じかけた瞳をそっと開ける。首には奴隷として付けられた鎖が千切れ、気が付けば、地に横たわっている。此処は
僕の世界は怒鳴り声とともにあった。それは雨音のように鮮明に脳を壊していく。居場所など何処にもなかったけど、子供の僕にはどうすることも出来なかった。いつだって、部屋のすみに座り、
男と女が静かに安酒を飲み、干し肉を貪っている。唾液と混じり柔らかくなっていく干し肉の音。僕は無意識に彼らの口元を見てしまう。今日は何も──いや、自らの爪と指先の皮を口にした。皮のない指先からは血が流れ、爪は短く、ぎざぎざだった。僕は彼らの食事を見ながら皮を歯で剥き、ゆっくりと咀嚼し血をすすり、飢えをしのぐ。皮はすぐになくなってしまうけど、噛み応えがあってとても美味しい。それは奴隷として売られる日まで続いた。
「何で勝てねぇんだよ」
突然、男が騒ぎ出した。男の大きな声、僕は顔を上げ身体を震わせれば、女の狡猾な視線が突き刺さった。女は僕を指差し、口角を上げた。僕は青ざめた。本当は逃げ出したかった。だが、抗うことは出来ない。僕は生まれた時から奴隷だった。
「あいつのせいよ」
女は言った。
「あいつ? おいおい、誰のことだよ?」
男は僕を見て笑った。
「誰って。そりゃあ、スペクターのことだよ。ほら、そこにいるじゃない? 薄汚れたガキが」
僕は鼻をつまむ女を見た。
「スペクター? ああ、幽霊ってことか! いたなぁ、そこに! だがよ、それは本当の名前じゃねぇだろ」
男は楽しそうに言った。僕には何が楽しいのか分からなかったけど、大人が幸せであれば良かった。僕は曖昧に微笑んだ。突然、「真顔だ」と罵られ、男に腹を靴のまま何度も蹴られたことがあったからだ。
「ほら! 脱げよ、汚れんだろう?」
頷き、僕は服を脱ぎ、ぎこちなく笑った。これが正しいと信じていた。
「はっ! 気持ち悪いんだよ」
男は冷たい目で僕の腹をボールを蹴るように蹴り続ける。声を殺し、一秒でも早く終わってほしいと願った。
──死ねよ、とっとと消えろ。
──あ? 何だよ、その目は? 生意気なんだよ、てめぇはよぉ!
──おっ、ようやく死んだか? いや、生きてる。あ~あ、しぶといなぁ、お前。てか、そろそろ、仕事の時間だろ。起きろや、クズ!
気を失った僕の胸を男は笑いながら踏んでいた。
「うっ……」
大きく咳き込み、埃まみれの鏡に裸の少年が映り、渇いた血が腹の上に広がっていた。膿み、変色した皮を肋骨が突き破りそうだった。唇は切れ、伸びた髪は脂っぽく、慌てて掴んだ服は汚れ、とても臭かった。そして、部屋には女はいないようだった。
「何してんだ、早くしろ!」
今度は顔を殴られてしまった。僕は服を着て、膿んだ身体で鉱山に向かった。何故だろう、鼻血が止まらなかった。
「え、そうだっけ?」
女はわざとらしく目を丸くした。僕は女の声にハッとする。ぼんやりしていた。抱えた両膝がまた、大きく震えだした。驚き、膝を叩いた。お願いだから目立たないで。このまま、幽霊になりたいと僕は思った。
「はっ、駄目だなぁ、お前は。ほら、俺がちゃんと呼んでやる……ん、あれ? 何だっけ、お前の名前」
男は充血した目を僕に向けた。
「ほら、あんたもじゃない!」
女がやっぱりと笑い、男の肩を強く叩いた。
「だな、忘れちまったわ」
彼らは腹を抱え、笑っている。僕はホッとしたんだ。彼らは僕を忘れて──
「あっ」
息を呑んだ。聞こえる
「スペクター、何の音だ!」
男は怒鳴ったが、僕は答えることが出来なかった。聞かれてはいけない音が彼らの耳に触れた。また、蹴られてしまう。男は立ち上がり、僕の前で屈む。女は酒を飲みながら、ニヤニヤしている。
「ご、ごめんなさい」
唇がどうにか音を出した。
「んん~? 何謝ってるんだ、スペクター? 俺はちゃんと知ってるぜ、腹減ったんだろ? いいよ、食えよ! 許してやる!」
男がにやりと笑った。
「え?」
「ほら、あんだろ、空気! 好きなだけ食えよ? 味気ねぇから塩でも振るか? おい、てか、なんだよ……その顔……俺の冗談がつまんねぇって?」
「ち、ちが……」
「違わねぇだろうが!」
男は顔を真っ赤にし、テーブルに置かれた瓶を掴み、僕の額に振り下ろした。
「!!」
簡単に弾ける瓶、僕は衝撃に倒れ込んだ。
「おい! このまま、売っちまおう。奴隷商のとこに行くぞ」
瞳に麻袋を持った男がうっすらと映り込んだ。