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妖綺譚『恋煙管』
登場人物一覧
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「変なお客やねぇ。抱きもせずにただ女郎の話を所望するなんて」
『暁月夜』蜻蛉(p3p002599)は朱を引いた眦を撓ませると、紅を塗った口唇から煙管を離した。
鈴の音が転がるような笑い声は真鍮の雁口から流れる煙を揺らし、芥子の香華を燻らせている。
「でもうちはそういうの、嫌いじゃおへんよ? ほな、煙管にまつわる恋の話でも一つ」
蜻蛉は肘を乗せた脇息から身を起こすと、手にした煙管を懐かしげに見つめて語り始めた。
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ここは色里、人目を忍ぶ隠れ里。
女が金糸銀糸を織り交ぜた着物の袖で紅唇を隠して笑うと、大輪の花簪から下がる房が揺れた。
「変なお客やねぇ。啼かずの太夫と話だけしたいなんて。旦はんみたいなん、初めてやわ」
「そうか? 花を愛でるには俺の指は無骨に過ぎる。ま、男も色々いるってことだ」
男は女に酌をさせながら、節榑立った指には似合わぬ朱い羅宇の煙管を口唇から離して煙を吐いた。
啼かずの太夫──女はそう呼ばれていた。
容易く男には肌を許さず、寝ても決して啼きはしない。
太夫ゆえの気位の高さと、周りの誰もが咎めはしない。
抱かずの旦那──男はそう呼ばれていた。
大金叩いて女を買っても、酒と話の相手をさせるだけ。
大勢に秋波を送られても、女の色香に迷うこともない。
「そもそも人の身でこの妖の『宿』に来はるなんて、珍しいわぁ。仙人には見えまへんけど」
「小さい頃から人でない者が見えてな? だからここを見つけた時も驚きはしなかった。太夫は‥‥妖弧か?」
「うちは化猫どすえ。これが狐の尻尾に見えます?」
男は煙管の先で紫がかった黒髪の隙間から生えた耳を指し、女は朱を引いた眦を細めた。
人の身にしゃんと立った耳、するりと尻から生えた細い尾は、化猫にとっての高貴の証。
「この『宿』に来るものは皆、人と妖、どちらの世界にも属しきれぬ者と聞いた。さて、化け猫の太夫は如何なる恨み辛みからここに留まっているのやら」
「ふふ、恋し人を慕ってかもしれまへんえ? ‥‥と言うのは嘘。うちは少うしだけ人の血が混じっているみたいやわ。親の顔は知らんけど」
長く生きたか、恨み残したか、それとも合いの子か──
それは今となっては『宿』の限られた者しか知らぬこと。
男はじっと女物の高価な煙管を見つめると口唇を動かす。
俺と同じだな、と。
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抱かず啼かずの関係は暁月夜に終わりを告げる。
その夜やって来た男は疲れているように見えた。
否、今にも糸が切れそうな程、張り詰めていた。
「どうしたんえ? お疲れなら寝らはってもいいのどすえ? 愚痴ならいつでも聞きますよって」
まるで夜が開けたら戦いにでも出るように。
まるで二度とここへは帰れぬと言うように。
夜の静寂に煙管の先から紫煙はたゆたい、一切幾らの色里の夜は過ぎていく。
「この煙管は母の形見だ。母が臣下に下げ渡される時に父から贈られたものだと聞いている」
千年続く平安の都は神仙の血を引く帝により治められている。
代を重ねて薄らいだ血も、時には先祖返りすることもあろう。
太夫を買う身なり卑しからぬ男が訳ありなのは察していた。
背負った何かを逃げられる場所を求めてここに来たことも。
「忠誠を尽くしても、身を隠しても疎まれるのなら、いっそずっとここに居られたらいいのにな」
「‥‥ずっと居ればいいのんちゃいます? ええよ、うちはええ。旦はんならええよ? うちが旦はんの居場所になりますから」
人でありながら人の世に身を置けず、金で買うしか居場所のない男。
妖でありながら妖の世に宿世もなく、身を売るしか生きられない女。
女は背を向けると豪奢な飾り帯を解き、錦の衣を脱いで肩から落とした。
『抱かれたくなかったら客を選べる太夫になりなさい』
初めての客を取った夜、涙ぐむ少女に姐さんは言った。
『だけど泣きたくなかったら男を好きになってはいけないよ』
恋も知らぬ少女に、子を生んで死んだ姐さんが諭した。
滑らかな肩を露わにして黒髪を前へ攫うと、硬い真鍮の先が柔肌をなぞる。
障子越しの月に照らされた白い背を晒すと、温い煙管の熱が恋火を付けた。
顔だけ振り向け誘う流し目は、恋の手管ではなく恋ゆえの臆病。
指の代わりに煙管で弄ぶのは、愛の遊戯ではなく愛ゆえの躊躇。
「抱いたら戻れなくなる」
「戻らなければいいのんちゃいます? ずっとうちと、ここに──」
肩を掴んで強引に抱き寄せたのは、大きく硬い男の手の平。
驚きに上がる声を荒く塞いだのは、皮肉を湛えた男の口唇。
一切を脱ぎ捨てて男の首へ腕を巻き付けると、逞しい腕の牢獄に身は囚われる。
獣のように全てをかなぐり捨てて求め合えば、柔らかな女の肉が男を囚らえる。
抱いて抱かれて人と妖。
啼いて啼かれて男と女。
夜よ、明けるな、いずれ朝に別れるのだとしても。
月よ、消えるな、やがて朱も消えるのだとしても。
ずっとこのまま、もっとこのまま──暁の空に月のある限り。
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『宿』の内ではいつもの閨事が繰り広げられ、外では山狩りが行われている。
「お願い、誰か旦はんを助けて! 出来ないならうちを外へ出しとうせ!」
篝火を手にした武者達は皆口々に謀反だと叫ぶけれど、女は知っている。
男が玉座を望んだ訳ではないことを。
男が望んだのは居場所だったことを。
けれど剣を携えた武者達は皆口々に王命と嘯いて、男を消そうとした。
命からがら山へと逃げ込んだ男は深い傷を負っている。
『宿』へと辿り着けば仙薬が忽ちその傷を塞ぐだろう。
けれど人界と妖界の狭間の『宿』は自ら男を招くことはない。
愛し人よ、どうかうちの元まで辿り着いて。
恋し君よ、どうかうちの元へと帰ってきて。
「お願い、うちをあの人のところへ行かせて! このままじゃ旦はんが死んでしまう!」
泣いて頼めど女郎の身、『宿』から出ることは叶わず。
叫んで呼べど妖界の者、『宿』の外には声は届かない。
外の世界を移した鏡の向こうでは、既に男が武者達に囲まれている。
だけど伸ばせば届くと分かっている指を、男は伸ばしはしなかった。
何故なら触れれば現れる『宿』を人に知られぬため。
何故なら『宿』の中にいる女に災いをもたらさぬため。
「お願い、どうか触れて! うちのことなんて気にせんでええから中へ入ってきて!」
だけど流す涙を拭った指は二度と女に触れることはなく、眦の黒子を愛しむ指は二度と動くことはない。
恨み言を聞く耳も、言い返す口唇も、骸から斬り落とされた頭ごと失われ、愛用の煙管だけが残された。
「こんなん残されても嬉しくないえ? うちがどれほどこの煙管に妬いたか、知ってはりますの?」
それは男の口唇を独り占めにしていた煙管。
それは抱かれた朝に密かに吸ってみた煙管。
これは指の代わりに背中を撫で下りた煙管。
これは吐息の代わりに熱を伝えてきた煙管。
そっと口唇に押し当てて孕めば、男の唾が残されている気がして。
そっと下腹に手を置いてみれば、男の種が宿っている気さえした。
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「それがその煙管ですね?」
「いややわぁ、そんな真面目に。よくある遊女の話ですえ? 抱かないお人が珍しゅうてしてみただけ」
マネージャーを名乗るスーツの男に艶冶に微笑むと、蜻蛉は否定も肯定もせずに明けの月に向かって煙を吐いた。
それは寝物語の代わりの恋物語。
真実を知るのはこの女ものの朱い煙管だけだ。