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別離回想・未練不斬のこと
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- 観音打 至東の関係者
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●終の別れ
拙者と獅子郎どの、ふたり。その最期の住処でのことだ。
草臥れた庵。どうにか風雨凌ぐばかりの、廃寺もかくやという有様だ。
「至東、よいか」
――これまでになく、凛とした声で。
病に伏せる獅子郎どのが、拙者を呼んだ。
「……なんなりと」
その傍らに座る。
目線は、合わせなかった。
合わせたくはなかった。
死臭と汚濁と、あきらかな衰微が、夫の顔に見えるからだ。
「お前の……お前の、可愛い顔が見たい」
「はい」
観念して、面を向ける。
獅子郎どのの――もはや見る影もない、生ける死人がごとき、貧相面。
歯はすべて抜けた。歯茎は腐り、こらえ難い悪臭を放っている。
目は濁り、鼻はことごとく落ち。
頬は土気色。自慢のたてがみも、もう……。
「笑っては、くれぬのか」
「笑えませぬ」
「はは……」
それでいて声は、何の意地悪か、あの頃の、厳しくも優しき我が夫、獅子郎どののまま。
「甘えさせい、至東」
「仰せのままに……」
上着を肌蹴る。心の臓の体温を直接、しかし一方的に与えるだけの抱擁を。
からだの冷たさに、すこし硬くなった『それ』を、夫は背筋抱き寄せ、胸板に転がさせた。
熱は……こちらだけ。
「思い出すなァ……至東よ……あの暑い夏、寒い冬のこと……」
「…………はい」
「夜毎連れ出しては神社の影やら橋の下やら、あの街の『スポット』はコンプしたなあ」
「何度かバレ申したがそのたび獅子郎どのが『おう! 混ざれい!』とか言うのはご勘弁願いたく」
「ハッハッハそれで混ざりに来ぬ者ばかりで、それがしこれが未練でなあ」
「ハハハ百回地獄に落ちて閻魔殿に陽根えぐり抜かれるがよろしいござる」
――たましいは、腐らなかった。
幸か不幸か。拙者にとっては、只々辛い――。
「至東」
「は」
「あの塩を持てい」
「なりませぬ」
「どうしてもか」
「どうしても、に御座います」
獅子郎どのの言う『あの塩』とは、いつだったか旅先にて手に入れた、ある岩塩のことだ。
舐めて辛く削って尚辛く、どだい質の悪い塩なのだが。
これを獅子郎どの、いたく気に入られた。
特に酒精の強い仙人掌酒と合わせて飲むのが、最高なのだという。
……医者の言うことには、獅子郎どの、それで身上潰されたとか。
「至東。こちらも『どうしても』なのだ。理由を言おうか、それがしの舌で」
「それは……言わずとも」
わかっては、いた。
「いや聞け。――あれこそが、それがしの最後の恋だからだ」
……嗚呼。
「それがしを殺せなんだ幾千の刃傷にまさる傷を、あれだけが刻むことができたからだ」
「拙者を……」
「至東」
「拙者を……わたしを!
こんなにまで、女に、しておいて……!」
「許せ。それがしは恋多き獅子。この性分ばかりは、どうにもならぬわ」
身を上げた。西日がきつく入り込み、わたしの乳房の線をあらわにする。
その火照る肌に、涙滴ひとつ、ぽたりと落ちた。
「知りませぬ。かような浮気者、どうくたばろうと、もう、わたし、知りませんッ!」
ダンッ!!
怒りのままに、畳を踏み抜いた。
裏返る、その物陰に、ずっと隠していたそれを。
空中で取り、全力で、獅子郎どのの顔に投げつける。
「おう」
パッシイイイィィ……ン。
骨と皮とが、筋と肉とに劣らぬ速度で、それを受け止めた。
――【悪水の岩塩】。確かに返した。
「美事な投擲ぞ、至東。特にぷるーんぷるんしてる所が素晴らしい」
「手の内で歪む様こそ一番と評していたくせに」
「これからは、それがしの手にならず、そうなることもあろう」
「……」
やれやれ、否定できないござるなあ。
この寂しがりの肌は、出会う前より『そう』なのであった。
「なるほど」
「であろう? ん?」
性分とはそのことか。
涙は引いた。
獅子郎どのが――拙者のこれからを、笑って言い当ててくれたから。
「では至東、酒を持て」
「ああもう、次から次へとこの夫は」
「なに……三劫、時のつるぎはもう、それがしの喉元深くに刺さっておる。
それを僅か引き抜くのみぞ」
「……左様で、ござるな」
拙者は席を立った。上着を羽織り直し中座しようと。
向けたその背に、獅子郎どの声をかける。
「おう、持ってきてはおらぬのか」
「主人殺す憎き酒など、当家にもはや一瓶たりとありませぬ。ゆえ、市に使いに出ねば」
「そうかー……では至東、久しぶりに勘案などさせようか。
使いの合間の暇つぶしになろう」
「と、仰られますと」
「これからそれがしが何を言い遺すか、当ててみよ」
「……っ」
わからなかった。
いや、わかりたくなかった。
思考がそこで止まる。デッドエンド。
「獅子郎どの……それは」
「行け、至東。今の互いの顔、見るべきものに非ず。
――拈華微笑、その粋に至らぬそれがしは。
信じて託すより他にない」
「託すならば――」
「――託すならば、いのちを託してもらいとう御座いました」
それだけを言い残し、わたしは庵を出た。
●始めの勘案
市から戻った時、獅子郎どのの骸は、まだ暖かかった。
冷たいのだが、暖かい。
それもいずれ喪われよう。
夫の唇に塩を塗り、酒を含ませて、末期の水とした。
ついでにご相伴に預かったのは、拙者と獅子郎どの、ふたりだけの秘密。
「さて」
あれから数週。
葬式の手配をして、荼毘屋の予約を取り、拙者以外の三人の元妻にも報を入れた。
通夜で久々にあった彼女らは――誤解を恐れずに言えば、幸せそうであった。
もちろん、獅子郎どのの死には、それぞれ深く悲しんでおられた。
そこに疑いようはない。
拙者と違うのは、その悲しみの行き先が、あったということ。
受け止めてくれる御家族が、いらっしゃった。
であれば、心配は不要であろう。お見送りして、別れた。
「さて」
この『さて』を言うのも、何度目でござろうか。
では、と次の動きを導くものか。
いや、と続く動きを否むものか。
どちらとも判断つかぬ。
街に出て次の男を探すのもよし、このまま庵にて隠遁するもよし。
どちらを選んでも、菩提弔うことになろう。
そういう懐の深さが、獅子郎どのにはあった。
「……さて」
しかし、しかしだ。
何一つ獅子郎どのは、ご自分の言葉では言い遺さなかった。
選択肢を遺さなかった。
残ったものがあるとするならば。
「獅子郎どのが、何を言い遺すか、当ててみよ……で、ござるな」
空を仰ぐと、はぐれの告天子が、高く高く鳴いている。
何気なくスマホのカメラでそれを狙う。巧くその鳴き声も撮ることができた。
「……見せる相手も、いないというに」
風が吹く。ふと拙者のこころが、何事かを聞いた。
「――――――――」
「はい、獅子郎どの」
その零言が、喉のつかえを取り払った。
そういう気になった。
そういうことにした。
柔風に微笑み。
一人涙する。
「……白獅子無双の墓、立派に立て申したゆえ、そなたの妻に残る未練はありませぬ。
であれば、妻はここで、お前さまと共に死んだものと」
涙を拭う。
「お前さまの妻である私を、この瞬間、この宇宙に切り離して。
現し世の旅を、お前さまと別れて往き申す」
「答えのない勘案。ならば答えは、己が裡にあるものと。
端的に言えば、『何でも都合よくテキトーにそれがしが言ったことにせい!』でござろう?」
うむ、説破見事。これならぐうの音も出まいて。
あまりに見事すぎて、笑いが止まらなかった。
止まらなかった。
- 別離回想・未練不斬のこと完了
- NM名君島世界
- 種別SS
- 納品日2021年01月04日
- ・観音打 至東(p3p008495)
・観音打 至東の関係者