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ティル・タルンギレにて君を待つ
登場人物一覧
- ネーヴェの関係者
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お父様は、わたくしに、暖かいベッドをくれました。
お母様は、わたくしに、甘いスコーンを焼いてくれるのです。
それでも。時折、窓の外を駆けていく、わたくしよりも、元気そうな子供たちが、うらやましくて。
わたくしは、おひさまの匂いだけがする、柔らかいシーツの海を、潜るしかなかったのです。
外の世界で生きるには、わたくしの躰は、あまりにも脆いのだと。
紅茶と、スコーンと、マフィンと。甘いお菓子にお薬を混ぜて、のみこんでも。
まだ、治らないから。芝生の上を裸足で駆けることも、海と呼ばれる、おおきな水たまりの上に行くことも。
叶わないのだと。
そう、思っていました。
●晴れやかなるマグ・メル
穏やかな春の日であった。
眠るネーヴェの頬を温かな春の陽気が撫でる。
「ん……?」
鼻を擽る若葉の匂い。爽やかな春風がネーヴェを目覚めへと誘う。
「ああ、起こしてしまっただろうか。やあ、ネーヴェ」
「ルド、さま……?」
「身体を起こすのはゆっくりで構わないよ。調子は……うん、良さそうだ」
ネーヴェの赤い瞳が彼の顔をしっかりと捉えるまで僅か10秒。寝ぼけ眼をこすって頭を横にぶんぶん振れば、ようやく頭もすっきりするというものだ。
『ルドさま』と呼ばれた男――ルドラスは、朗らかにネーヴェへと笑みを向けた。春風が白いカーテンと彼の長い髪を揺らす。どこかの英雄のようだと、ネーヴェは思った。
狭く、小さく、閉じていたネーヴェの世界に光をくれるのはルドラスであった。彼は腕の立つ冒険者であったようで、以前ネーヴェが危険に巻き込まれた際にも、見ず知らずの娘であったというのに助けてくれたのだ。
そのきっかけがあり、ルドラスは気まぐれにネーヴェの屋敷を訪れては冒険譚を語り、聴かせていた。
ときにはネーヴェの両親も混ざって、四人で集まって、なんてこともあった。ルドラスが屋敷を訪れると、屋敷に住まう人々の笑顔が多くなる。だから、ネーヴェはルドラスのことが好きだった。太陽のような人だと思っていた。
恋ではない。きっと憧れだ。
健常な躰。分け隔てない隣人愛。優しい語り口。あんな風になれたなら。
きっと神様は彼を自分の元へ遣わせてくださったのではないか、そんな風にさえ思えた。
優しく響くテノールの『おはよう』は、きっと世界中を探し回ってもない。
だから、ネーヴェも心を込めて、告げるのだ。
「おはようございます、ルドさま」
と。
●イ・ラプセルでうたたねを
「今日は、どんなおはなしが、あるのですか?」
手内にある刺繍も放り出して、ベッドの傍に置いて。
ネーヴェはこの日も、ルドラスの語る冒険譚に夢中であった。父も母も今日は出ている。こんなに楽しい話ならば二人にも後で聞かせてあげなくては、そう思った。
「そうだなあ。洞窟の奥で見つけたお宝の話、なんてどうだい?」
「お宝……!」
ぱぁぁっとネーヴェの顔が明るくなる。くすくすと笑って、ルドラスは身振り手振りを交えながら語りだした。
「その洞窟はラサ……熱砂の、とこしえの砂漠のくにに、あってね」
「ラサ……暑くは、なかったのでしょうか?」
「ああ、そうだね……熱気がこもっていて、息苦しかったかな。結構汗もかいたから、宿でシャワーを借りて洗ってきたんだよ」
「そう、なのですか?」
「はは、そうさ。女の子の前に来るなら、ちゃんとした装いで来たいものなんだよ、男って」
「でも、わたくし、ルドさまのこと、おにいさまのようなものだと思っていますから……とのがたでは、ないです!」
「ふふ、そっか。それはそれで嬉しいけれどね」
「ルドさま、ルドさま、続きを、はやく!」
「はいはい、落ち着いて。でね、その洞窟の中には――」
◇
その洞窟の中にはね、美しい鍾乳洞があったんだ。
その鍾乳洞は……例えるなら、星空を映したかのようだったんだ。きっと魔力が溜まっていて、放出する過程でそうならざるを得なかったんだろう。ネーヴェにも見せてあげたかったよ。あそこは本当にきれいだったんだ。
熱気が苦しかったのはさっきも言った通りなんだけれど、洞窟のなかの暗がりに罠があったみたいでさ……悪気はこれっぽっちもないんだけど、うっかり罠を踏んでしまってね。大きな岩が転がってきたものだから避けていると道に迷ってしまったんだ。あの時はもう死ぬんじゃないかってひやひやしたよ。
罠を抜けたと思ったら今度は敵と遭遇してしまってね。もう、ほんと……息つく暇もないって、こういうことなんだろうなぁって。まぁ戦ってるときは、そんなこと考える余裕もなかったんだけど。怪我? してないよ。俺の方が運がよかったみたい。
ああ、そうだ、ええと、続き。そのあとは……洞窟のなかで少し休憩かな。そうそう、お腹が減ってたら戦えない、でしょ?
空気が乾いてなかったから火を起こすのは大変だったんだよ。で、まぁ火を起こして。持ってきておいた肉を焼いて食べたりして、その日はおしまいさ。え、ほら……雑魚寝、っていうのかな。床で寝たんだよ。あ、こら、ネーヴェ、真似をするのはよすんだ!
……うん、いいこ。
それじゃあ次の日、だね。
次の日は朝から、だったんだけど。日の光を吸収したのか、眩しくってさ。ろくに目も開けられなくって。手探りで探索をしていたら、漸く怪しげな扉を見つけたんだ。でも、でもね。そう、洞窟なんだ。洞窟なのに、謎解きがあったんだ。
ね、ほんと、謎解きはちょっとなぁって感じだったよ、俺でもね。もうダンジョンでもいいような気がする。
ただ、そこの謎解きは妖精にまつわるものでね……アルティオ=エルムの妖精の噂を調べていた時を思い出して、進んだんだ。その扉を開くには、常若の国の永遠の実を、命にしたものを持ってこなきゃいけないんだ。何かわかるかい、ネーヴェ。
違う違う、血なんてものじゃない。ネーヴェは飲めないし、俺も飲めない。けど、キミの親御さんは飲める……そう、酒だ! あはは、笑っちゃうよね。林檎からできたお酒を持ってこい、だって。
でもそんなもの、俺が持ってるわけないだろう? ここで、ネーヴェのお父さんに頼んで、林檎の酒をわけてもらったんだ。汗まみれになってね。だから、そう、今の俺は洞窟帰りってわけさ。
◇
「じゃあ、ルドさまは、今、お宝を……?」
「うん。お父さんはいないようだから、まだ渡せていないんだけど。お礼にと思って、いくつか宝石とか、お皿とかをもらってきたよ。
それから、ネーヴェにもお土産。手を出して?」
「わ、わ。はい……!」
そわそわとしながらも、細くて小さい、まっしろな手を差し出したネーヴェ。
頷いたルドラスは、金の装飾に赤の魔石が埋め込まれた指輪を、ネーヴェの右手中指に。
「……はい。これはきっと、ネーヴェのことを護ってくれるはずだよ」
渡された指輪は仄かに暖かい。
煌めく冒険の足跡が、己の掌の中にあることが、うれしい。あまりにも嬉しくてその日は眠れなかった。
●ティル・ナ・ヌグまで駆け抜けて
その日はすっきりとした青空が広がる夏の日であった。
気温も高く体調を崩しかねないと心配する両親の懸念をなんとか拭い、ルドラスとネーヴェは二人だけの冒険譚を紡ぐことにしたのだ。
「わたくしが、」
「うん」
「昔読んだ物語には、西の海を、越えた先、に」
「うん」
「妖精のくにが、あるらしいのです!」
「へえ、そうなんだ。となるとアルティオ=エルムの方だね。あそこは閉じているから、俺もあまり訪ねたことはないのだけれど」
若葉を、緑を、生まれたばかりの新緑を踏みしめて。
ルドラスはネーヴェが木の根に躓かぬように、手を差し出して。ああ、これが『ぼうけん』なんだ!
西の海を一日で越えるのは難しいだなんていわれなくてもわかっていたから、せめて西を向いて歩みを進める。穏やかな森に降り注ぐ陽光は、二人の行き先を照らし出す。
「ね、ネーヴェ」
「なんですか、ルドさま?」
「いつか、二人で冒険ができたらいいね」
「! はい……っ!!」
叶うはずもない約束のそのひとつ。
貴族令嬢と、一介の冒険者が冒険をする。
叶うはずもない。それでも、指切りをして。
ふたりは、確かに笑いあった。きっと叶うと信じていたから。
「わ、お花畑……!」
「ネーヴェ、あんまり走らずに……ああもう、仕方ないな」
駆けるネーヴェを追う。もちろん、本気なんて出さずともすぐに追いつくことはできるけど、あえてそれはしない。
楽しそうに花を集め、編み始めるネーヴェを見守り、ルドラスは花畑に寝転がって転寝を。
春風がネーヴェの楽しそうな声を攫って行く。
「……ド……ま…………」
「ルド……ま……」
「ルドさま!」
「見てください! ルドさま、お花のかんむり、です!」
「寝ていたんだ、ごめんね……わぁ。前みたときよりも、うまくなってる」
自身の頭の上にかぶせられたそれに瞬き二回。たんぽぽとシロツメクサの花冠。やわらかな春の色。
「……ありがとう、ネーヴェ」
「ふふ! ルドさまには、もっとつくって、あげますね!」
「ああ、頼むよ」
こんなふうに、花を摘んで、編んで。紅茶と菓子をつまんで。時折、冒険もしながら。
そうやって、穏やかであたたかくて、満ち足りた日々が続きますようにと、祈った。