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騙し合いのシガレットキス
登場人物一覧
Shooting starsの営業が終了し、後片付けを行っていたグレイシアはカクテルグラスを布巾で拭きながら小さな溜息を吐いた。夜も深まった刻だ。小さな少女――ルアナは最早眠ってしまった頃だろう。
きちんと布団を被っているだろうか。幼いが故に風邪を引かれても困るとグレイシアは全ての用事が済んだ後、ルアナの元へ向かおうと決めていた。少量の荷物を纏め、カンテラに焔を灯してグレイシアはルアナの部屋の扉をそうと開く。
暗がりの部屋で何時もならば穏やかな寝息を立てている娘は、今日という日ばかりは違っていた。
「何かご用かしら?」
冷ややかな声音が響く。扉を開けばベットの上にはグレイシアのシャツを適当に借りて着用しただろう金の髪の女が腰掛けている。幼く、あどけない勇者ではない――それはまさしく、グレイシアの命を狙う女の姿である。
「……『勇者』か」
グレイシアは確かめるようにそう、問うた。先程の声は『戯れで大人の格好になったルアナ』ではない。魔王を殺すために存在する勇者としてのルアナだ。その外見も精神も大人のものであるそれ。それは『おじさま』と呼び慕い甘えてくる娘ではないのだ。勇者――自身の命を奪う彼女を前にして、警戒したようにグレイシアは距離を取る。
「何よ。警戒して。……そんなにいきなり殺しに掛るわけないでしょう?」
「……信じるには足らんな」
「今、貴方を殺してみなさい。『私』が悲しんで再起不能になるわ。
平和な頭をしているから、貴方のことを信じ込んで『魔王』だなんて思わない幼い私……良かったわね、『私』が貴方のことを好いていて」
その言葉にグレイシアは肩を竦めた。確かに、幼い『ルアナ』は自身の事を好いている。家族愛か、それとも親愛かは分からないが彼女を庇護下に置いた自分がいなくなれば、その生活を支える者が一人減るという事なのだ。
勇者である彼女にとって己は憎く世界のためには殺したい存在である事には違いない。だが、
「それで? 様子を見に来たのかしら」
「……ああ。冷える頃だ。ルアナが腹を出して寝てやしないか……どうやら余計な世話だったようだが」
「幼い私ならば喜んだでしょうね。……まあ、『おじさまと寝る』だなんだと言って貴方の服を借りて待っていたようだけれど」
そう言って彼女が示したのは自身のサイズのワイシャツであった。どうやら、幼い姿のルアナが悪戯心で着用したのだろう。其の儘、精神が何の拍子か『勇者』に転じたのだろう。
「……そうか。後でルアナには風邪を引くから止めるように伝えなければな」
「どこまで『保護者』面なのかしら」
ふん、とそっぽを向いたルアナへとグレイシアは「そう言うな」と呟いた。依然として二人の距離は開いたままだ。
ルアナは「こっちに寄りなさい」とベッドを軋ませ、グレイシアへと向き合った。「冷えるでしょ」と視線を揺らがしたルアナにグレイシアは「ああ」と小さく頷いて扉を閉める。
「……貴方、煙草の臭いがするわ」
「……ああ、そうだろう。先程まで閉店準備をしていた。客の中では煙草を嗜む者も居るからな。不快だったなら済まない。許してくれないか」
静かにそう告げたグレイシアにルアナは何かを考え込むような仕草を見せた。何処か、不快感を示したように眉根を寄せる。苛立ちを滲ませた彼女は「煙草」と小さな声でそう言った。
「煙草……だから、臭いは申し訳ないと――」
「違うわ。貴方は煙草を吸うでしょう。客の物ではなく、自分の趣向で。
それを一本頂ける? 貴方の『客の』臭いがキツくって仕方が無いの」
気怠げに呟くルアナへと「煙草は、ダメだろう」とグレイシアは否定する。彼の頭の中で過ったのは「おじさま」と微笑んで手を引いてくれる10歳の少女である。
「どうして?」
「いや、未だ早――」
「誰を見てそう言うのかしら。幼い子供だと考えているようだけれど、本来の私は『こっち』よ。
……ああ、それとも、耄碌した? 『魔王』と云う者でありながら、大人と子供の本質的な区別も付かないなんて」
じい、と見上げたルアナにグレイシアは「そうだったな」と呟いた。何時までも幼い少女の儘のイメージばかりが付き纏うが、彼女は自身を殺す為に存在して居るのだ。『それを幼い子供だ』と扱うことは、彼女をそれではないと否定するかのようだ。深層意識で彼女に気を許してしまっているのだろうか、と感じ取りグレイシアはぐ、と息を飲んだ。
「……一本遣ろう」
「ええ」
そうと、煙草を一本投げ寄越したグレイシアは溜息を吐いた後、自身も一本咥えた。ポケットから出したオイルライターは初めて幻想に訪れたときにルアナと選んだ者である。金の意匠が施されたそれは彼女曰く「わたしのいろ」だそうだ。其れを今、ポケットから取り出すのは憚られたが、火は其れしか持っていないので致し方がない。
「……それ」
ルアナ――勇者がふ、と見上げる。その眸は揶揄うような色味が含まれていた。唇を吊り上げた女は「『私』が一緒に選んだ物でしょう。後生大事に持ち歩いているのね? ……本当に幼い『私』を好いているように思うわ」と囁く。
「少々語弊を感じるが……」
「そうかしら? ええ、そう聞こえるように云ったの。
つくづく『幼い私』に甘いようね。ねえ、火を頂戴」
「……ああ」
オイルライターを手渡そうとしたグレイシアに「違うでしょう」とルアナは云う。
「使い方が分からないわ」
「何を言う」
「……私は『幼い』のでしょう。『おじさま』」
嗚呼――揶揄う声色だ。後ろ手に何かを隠していることは分かる。勇者は美しい笑みを浮かべて、「それ」と囁いた。
視線で辿られたのは火の付けられた煙草である。グレイシアは唇を噤んでからやれやれと彼女の咥え煙草へとその日を移した。
端正な女の顔が近づく。背筋をピンと伸ばし、後ろ手に見た銀のナイフが僅かに煌めいている――其れに気付きながら、グレイシアは彼女の肩をぐっと掴み音を立ててじわじわと火を灯らせ侵食していくその様子を確かめてからそっと離れた。
「……此れで良いだろう?」
「……ええ」
静かな声音で、ルアナは返した。
「……殺さないのか?」
「今なら殺せたわね。だから? 言ったでしょう。『今殺せば小さな私が悲しむの』
何度も言わせないで頂戴。それとも、それ程記憶力が落ちてしまったのかしら」
ルアナはそう呟いてから紫煙を吐き出した。女の唇は「ねえ」と静かな音を紡ぐ。
「――どうして、私を生かしているの? 私が勇者で有ること位、貴方は気付いていたでしょう」
グレイシアは紫煙を唇から吐き出しながら「はあ」と大仰な息を吐いた。肩がそれに合わせて動く。
脱力したかのように、落ちた肩と重力に誘われた灰を受入れるようにポケットから灰皿を取り出した男は「どうしてであろうな」と囁いた。
「……貴方のことでしょう」
「ああ、吾輩のことだ」
「……まさか、分からないなんて言わないでしょう?」
「……どうであろうな」
幼い記憶を無くしたルアナ・テルフォードならまだしも。自身は『勇者』である。それを生かした儘で側に置き、あまつさえ庇護下に置いている。警戒を解かないままの彼がこちらのナイフに気付いていようとも武器を手にする訳もなく、煙草の煙を燻らせている他に何の仕草も見えないのだ。
(変な人……幾ら傍で見ていても、『幼い私』と魔王は楽しげに日々を過ごしているだけだもの。
分からない、なんて言わせない。情が湧いたなんて甘いことなんかも言わせない)
見上げるルアナは要領を得ない返事ばかり繰り返すグレイシアに溜息を吐き、煙草をその灰皿へと押しつけた。
「少しはマシな臭いになったじゃない」
そっぽを向く彼女にグレイシアはふと、幼い彼女を思い出す。
――『おじさま、タバコのにおいがする。それって、お店のにおい?』
――『ああ……そうだが、嫌いなにおいか?』
――『……ううん。けど、わたしはおじさまのふだんのにおいの方がすき。おじさまのタバコのにおいは好きだよ』
煙草を灰皿に押しつけながらグレイシアが悩ましげにルアナを見下ろせば、その視線に気付いた彼女は「何かしら」と問い掛けた。
「くだらない質問は止めて頂戴」
「……ああ」
屹度、これも下らない質問となるだろう。グレイシアは「そうだな」とだけ呟き返し、『勇者のルアナ・テルフォード』から離れるように一歩後退した。あの距離では何時、彼女が隠し持ったナイフを突き立てられるか分かったものではない。
「警戒しているのね」
「……悪いか」
「いいえ、
ルアナの言葉にグレイシアは静かに考えた。それを彼女が是とする理由――勇者と魔王という元の関係性へと帰結することのない『幼いルアナ・テルフォード』というイレギュラー。
それを否定するかの如く、ルアナはもう一度強く言った。
「私は勇者で、貴方は魔王。……分かっているでしょう?
その関係は永遠に変わらない。だから、情を移すのも、『ルアナ・テルフォード』を可愛がるのも止めなさい。
何時か、私は――その『ルアナ・テルフォード』は魔王である貴方を殺さなくてはならないのだから」
勇者の声音でそう言って。ルアナはそっぽを向いた。
「……もう寝るわ。出て行って。
明日になれば、貴方の大好きな『ルアナ』が戻っているわよ。ご安心なさい?」
シーツへと潜り込んでいく華奢な身体。ナイフはサイドテーブルの上で僅かに煌めいた。