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しじまに滲んだ影になる
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波の音がした。
静かに、引いては押し寄せる。
喧騒は遠い。夏の気配がする。頬を撫でる、暖かな風に足裏の砂がやけにうざったい。
その音を聞いたのは二度目だっただろうか――
一度目は去年の夏。忘れもしない日。『あいつ』と一緒に来た。
『……これが、海ですねっ』
そう言って初めての海にはしゃいだ横顔を思い出す。
名前を呼んで、『ほら、海だぞ』と口を開きかけて隣を見ればそこには誰も居なかった。
サマーフェスティバルの喧騒なんかも遠い、この砂浜に立って居るのは自分だけ。
そう、ひとりだけだった。
打ち寄せる波が、寄せては引いて。
足を縺れさせた儘、抱き締めて捉えて濡れる足元にも構わず笑みを交える。
『お待ちになってシュバルツ。いいえ、リヒト・リッケンハルトさま』
そう言って、頬に触れた感触も遠く。
笑い声は残響に。
温もりは波が攫った。
しじまの中、シュバルツ・リッケンハルトはゆっくりと立ち上がった。
運命。いのちの辿るべき道。
一つのいのちの多岐にも渡った選択肢。
騎士が聖女であらんとしたこと。彼女が恋人から一人の騎士として戦うと決めたこと。
それは彼女が選び取った運命だった。
ならば、自身だって選び取れたはずだ彼女と今、ここに伴に或る未来を――
起こりえる筈のないたった一つの奇蹟を。
莫迦言え、そんな絵空事を口にしたって、救えなかったことに変わりはないじゃないか。
莫迦言え、有り得るかもしれない? 現に今はどうだ。『なかった』じゃないか。
――あいつは死んで、俺は生き残った――
その事実はどうしようもない影の様にこの背中に付きまとってくる。
彼女は聖女だった。
それ故に神が居ないだなんて莫迦らしい言葉は口にしない。彼女は神の徒なのだから。
彼女が信じた神はどうやらクソッタレ野郎で、彼女を冥府に隠して俺を嘲笑っている。
おい、分かるか。クソヤロウ。これがお前の選択した末路だと――!
クソッタレはそうやって俺に言うんだ。
分かってる。分かってたじゃないか。
胸を貫かれたときに垣間見たあの光景は、花弁の様に儚く散ってしまった。
どこかで花火の音がする――夏祭りの、淡い光景。
夜のしじまに花を咲かせて、消えていく。打ち上げ花火、ぱっと消えて、何所にも残らない。
交錯した視線の先、笑っていた彼女の淡い笑みが物語って居た様に。
この先も戦いは続き、悲劇は起こり続けるのだろう。
そんな事ないなんて幸福論は口しない。
悲劇なんて人が決めつけるだろなんて感情論も口にしない。
哀しみなんで巨万とあって、誰かが今日も泣いている。
不幸なんてこれでもかとクソッタレ野郎が齎して、救いを求めて手を伸ばしている。
助けてなんて聞くのも堪える言葉を繰り返す奴らを救うのが『聖女』だったんだろ。
俺はそんな大層な役職も、大層な力もないかもしれない。
けど、俺は生き残った。
「×××××」
ただの五文字だった。
唇が動いて、言葉にして。
さようなら。
あいしてる。
まっている。
すきでした。
いきていて。
ばかやろう。
『アマリリス』
『シュバルツ』
五文字で表せる言葉がどれほどあるか。
お前が何て言ったかなんざ誰かに言う事でもないだろう。
ただの五文字だった。
小指に運命の糸があるというなら、きっと、それが絡まる様にと人は願うのだろう。
その運命の糸を引き寄せる様に、誰かもきっと願っていた。
言葉にして、小指の糸を引き寄せて、抱き締めて。
その命の感触を確かにその体で感じて。
運命の糸が絡まり合って共にある様。
俺とあいつが願った様に。
俺とあいつが想った様に。
――それは、誰だって、思うんだ。
人はそういう生き物だから。
だから、決めたんだ。
この命は誰かの『大切』の為に使うんだ。
……お前だってそうするだろ。そんなこと聞くのは愚問か? 聖女サマ。
いつかまた無数の悲しみが襲うだろう。
いつかまた命を懸けてでも救いたいと願う人が居るかもしれない。
もう二度と、その腕の中で冷えていく『大切』を感じる奴が居ないように。
善人ぶってる?
莫迦言えよ。こんな欺瞞に満ちて、自己満足な奴いるか。
偽善者だ?
莫迦言えよ。俺は聖人でも聖女でもない。たった一人さえ守れない憐れな男だ。
そんな男が命を誰かのために使って擦り減らすと決めたくらいクソッタレ野郎なら笑って見てられんだろ。
知ってるぜ――この世界は残酷なんだろ。
クソッタレな神が笑ってんだからな。
こんな俺を見たら彼女がなんていうか?
莫迦言えよ。アイツだぜ。
「はわ、大丈夫ですよ」なんてきょとんとした顔をしてこっちを見てるんだ。
そんな大丈夫なんかじゃない癖に笑ってこっちを見てくんだから厭になる。
「ふふ、シュバルツらしいですね」なんて思ってもねぇこと言って笑うんだ。
お前が言うから本当にそんな気がするだろ。
だから、生きなきゃいけない。
悪いな――俺がそっちに行くのはもう少し先になりそうだ。
お前の事だ、寂しくっても笑って大丈夫だなんだ適当な事言うんだろ。
騎士で聖女はそんなワガママ言わないなんて冗談まで交えるんだろな。
そっちに行ったら、この両腕で抱き締めて、間違えもなくその名前を呼ぼう。
アマリリス。
瞬きをやめた心臓に、冷える指先に。
熱を帯びた彼女の声がきっと被さって笑うのだ。
「なあに」なんて甘えた声で。
それまで待って居てくれ。
見守って居てくれ――×××××。
波の音がした。
遠い喧騒、夏の気配。
しじまに花火の音が滲む。
のっぺりとした影の様に寄り添った不幸から目を背ける事無く、静かい息をして、吐いた。
気づけば月は雲間から姿を出して、浜辺に一人分だけの滲んだ影を残した。