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アニーと零の話~花束とフランスパン~
登場人物一覧
冷えきった硬貨を握り締めた手が凍りつきそうな夜。
零は兎のワンポイントが付いた桃色のマグカップにインスタントコーヒーをいれ、丁寧に湯を注いだ。ミルクはたっぷり。砂糖も少々。自分のは飲み残しに湯を注いだコーヒー気味飲料。そのふたつをトレイに乗せ、零はソファに腰かけているアニーのもとへ運んだ。
「ありがとう零くん」
こんな遅くに訪ねてきて、俺だからいいものをと零は思う。ハーモニアらしいすべらかな髪、ほっそりした、だけど出るところは出ている体。その身を彩る愛らしい服。最近のアニーはそこへ不思議な色香が加わって、零は気が気じゃない。幸いにもアニーは鈍感なので、魔の手は先んじて制することができるけれど。親友として、そして恋人として……いちばん傍で見守ってきたからわかる。アニーがきれいだということ。それ自体は喜ばしいけれど、他の男の視線が気になるのは自分の心が狭いせいだろうか。なんて思ったり思わなかったり。
だってまだふたりは恋人らしいことなんて、特にしてない。関係は親友だったころの延長線上で、シャイネンナハトに初めての口付けをしたきり。零としてはこのままでいいような、なんだか焦るような。あ、でもお風呂で洗いっこはしたな、素肌を見たんだからそこら辺のライバル共とは一線を画しているはず。全裸はまだですが。
アニーは上機嫌だ。お気に入りの歌手の唄をくちずさんでいる。零はコーヒー気味飲料を一口すするとテーブルの上に置いた。
「どうしたんだアニー、急に」
「零くんにどうしても見せたいものがあって」
「どんなもの?」
「うふふ」
アニーはもったいをつけてバッグから紙袋をとりだした。
「ふふーん、問題です。これはなんでしょう?」
「ええー?」
零は紙袋をまじまじと眺めた。なんの変哲もない茶色い紙袋だ。大判で、薄い。折り目がきれいなので硬いものだとわかる。手に持たせてもらうと軽く、紙越しにすべすべした感触がした。
「うーむ、わからん」
こう答えたほうがアニーが喜ぶと知っている。零は中身に検討をつけながらも彼女へ紙袋を返した。アニーは体を左右に揺らし、にっこり笑った。
「じゃーん、同人誌!」
そう言って取り出しましたるは、本屋の委託コーナーに置かれていたと思しき薄い本。
同人誌――その起源は定かではないが、ぶっちゃければ自費出版のあれやこれや。ここ数年はめざましい活躍をするローレットの影響を受け、推しイレギュラーズを題材にした漫画や小説が多い。そんな、通り一辺倒の知識が零の頭の中をテロップと化して通り過ぎる。
「なんとわたしと零くんの本だよ。こんな本が出るようになるなんて、わたしたちも名声が高くなってきたんだね。ふふっ、うれしいね!」
「……あ……あにー」
「なぁに零くん? ふえっ! なんでそんなに汗かいてるの!?」
「いや、その……中身は、確かめたのか?」
「ううん、してないよ? 零くんといっしょに読もうと思ってたの」
「……そうか、うん、ならいいんだ。俺にそれを貸してくれるか?」
零はハンカチで手汗を拭くと同人誌をつかみ……。
「いねええええええええええええ!!!」
窓からそれを投げだそうとした。
「れ、零くん零くん! なになに? いきなりどうしたの!?」
零の腰につかまり、必死に止めるアニー。正気を取り戻した零は冷汗を垂らしながら表紙の下の部分を指さした。
「ここに黄色い丸があるだろ?」
「うん」
「『18』と書いてあっておもいっきりバッテンしてあるだろ?」
「うんうん」
「18才以下は読んじゃダメっていう意味、わかる?」
アニーはうーんとかわいらしく眉を寄せた。
「わたしは二十だからだいじょうぶなんだよね?」
「うわああああああああああああああ」
「零くんっ!?」
「明日書店に行って買い占める! 借金してでも買い占める! 誰にも渡さん! 流通させてなるものか!」
頭を抱えて絶叫する零にアニーはびっくりした。すごくびっくりした。
「でも、うん、俺も19だし、はは、読んでもいいんだよな、うん、うん」
「零くんしっかり!」
うつろな目になりつつある零をアニーがゆさぶる。ためいきをついた零と、アニーはベッドへ並んで座った。
「それじゃ、開くけど」
「うん」
「あまり驚かないように」
「うん?」
零は意を決して薄い本を無造作に開いた。
『ひゃあん零くん! きもちいいよお!』
『へえ、ここがいいのかアニーは。よく覚えておくよ』
『あ、そこだめぇ…。なんだか体がびりびりするのぉ……』
『いいんだそれで、アニー、かわいいよ』
『あ、あっ、零くん! そこきもちいひっ、お星さま見えるぅっ!』
本能直撃官能絵巻。裸のアニーが零と絡み合っている。なお零が着衣なのは書き手の性癖であろう。だから何だという話だが。
(俺は! 彼氏として! どういう顔をすればいいんだ!)
ぶわっと変な汗が吹き出て冷汗を駆逐した。零はおそるおそる隣のアニーを見た。彼女はボーゼンとしていた。
「……え、なにこれ?」
「あかちゃんつくる儀式」
どうにかそう伝えると、しばらく呆けた顔をしていたアニーは猛然と言い返した。
「何言ってるの零くん! あかちゃんは月から光に包まれて舞い降りてくるの! 絵本に書いてあったんだから!」
「そこから!?」
「そこからってどこから!? こんなの知らないし! なんなのこれ! 零くん何か知ってるの!?」
要領を得ない反論をつなげてみると、ようするにアニーはその手の知識が全くない、らしい。
(おいおいマジかよ。俺でも最低限のことは知ってるぞ)
ありがとう保健体育の授業。性教育って大事なんだなあ。まさか異世界で役に立つとは思わなかったけどな!
そのうちアニーがぽんと手を打った。
「そっか、零くんはウォーカーだもんね。ウォーカーはこういう儀式が必要なんだね」
「ハーモニアもするの! これを!」
「ええっ!!!??!?!?」
アニーは零の手から同人誌を取り上げると最初からぱらぱらとめくりだした。そのスピードがだんだんゆっくりになっていく。
「……こ、これを、父さまと母さまもしてきたってこと?」
(ああっ、やべえ方向に想像が行ってる!)
「考えるな、考えるんじゃないアニー!」
「そ、そう……父さまと母さまが……あはは……あは……」
「こ、こーゆーのは、ほら、結婚した後とかそーゆう大事な時にするものだから……いや、人によるけど……とにかく愛し合う二人なら変なことじゃない……。言いふらす事でもない、が……」
「……」
沈黙が落ちた。冬の夜にふさわしい冷たく硬いものだった。アニーの表情は長い髪に隠れて見えない。
(誰かたすけて……ほんとに誰か来たら困るが……)
針の筵とはこのことか。零はやるせない思いで開かれたままの同人誌へ視線を落とした。目がハートになっているアニーが書かれている。まったくこっちの気も知らずに好き勝手やってくれちゃって。本人の知らないところでヤンチャするもんだろフツーは。
『どうだ俺のフランスパンは!』
『きゃあんっすっごい! 零くん零くん!』
『まだまだこれからだぜ……』
『ああっ、ひゃうう! 零くんのフランスパン美味しい!』
(書いた奴は頭がおかしいかよ! フランスパンって色々種類があるけど、どれ!? シャンピニオンなんて言われたらガチで泣くからやめてね!)
必死で思考を誘導しようとするが、そこに描かれているものは健全なる青少年にとってドストライクな例のあれ。
(あ、やべ……)
自分の体の異変に気付いた零はこっそりベッドを降りようとした。
ガッ! そのシャツのすそをアニーが掴む。どうしたと聞く前に、アニーが顔をあげた。ほんのりと上気した、赤く染まった顔を。
「……零くんも、こういうこと、したい?」
「へ?」
「したい?」
「お、あー、したいかしたくないかで言ったら、したい、けど、それはまだ少し先のような、気が……」
「そう……わたしは……」
零くんとのあかちゃん、いつか欲しいな。
零は宇宙へ旅立った。いや、行くだろ。そんな、かわいいかわいい彼女からそんな。
「すっごく、恥ずかしいけど、この本だってお手本だと思えば……悪くないかなって。あ……」
アニーはふと何かに気づき、驚いたようなまなざしで零の腰のあたりを見つめた。
「……フランスパン?」
「フランスパン言うな!」
「なら、どう呼べばいいの?」
「フランスパンでいいです!」
「……触ってもいい?」
は?
無知ゆえの好奇心。そんな言葉が零の頭を去来する。そうだ、いっしょに風呂に入った時も裸ではなかったのだし。
「いや、触るのはダメ、ストップストップ。ここ、男の子の大事なところだから」
「あ、そうだね。私も自分のここ触られたらびっくりするし。じゃあ……」
そう言いながらアニーはぴらりとスカートのすそを半ばまでめくった。白タイツに包まれた形のいいふとももがあらわになる。
「見せっこする?」
ドカンと零の中で何かが弾けた。あふれだしそうになるマグマを理性のベルトで無理矢理封じ込める。モグラたたきにも似た本能との戦い。強い衝動が荒れ狂い、零の意識をもぎ取ろうとしている。
「……アニー」
「ん、なに、零く……」
最後まで言い終える前に視界が揺らいだ。ドサリとベッドへ投げ出され、アニーは目を丸くする。その上から零が四つ這いになり乗っかっていた。低い声が零の口から洩れる。
「あんまり、誘惑すると、俺にも限界ってものがあるから?」
「れ、零くん。なんだか怖いよ」
そのままふたりは至近距離で見つめあい……。
「うぶ」
零が顔を覆った。指の隙間から赤いものが垂れている。
「だいじょうぶ零くん!」
「……鼻血」
薄目を開けた零は鼻血で汚れた顔を拳でこすっている。普段は見せない鋭い眼差しにアニーは場違いなときめきを抱いた。
(零くん、かっこいい……)
そして彼は男らしくきっぱりと言った。
「ちょっとトイレ行ってくる」