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Sweetie
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星さえもない、夜。今日はきっと、私達に相応しい日であったのだと沁入 礼拝 (p3p005251)は後に理解する。それとも、夏の幻なのだろうか。ああ、判らない。それとも、判らないからこそ、面白いのだろうか。
「沁入さん」
ハッとする。少しだけ、意識が遠い。目の前には、若い男。どうして?
ああ、そうだ。私は──
「○○様、なんでしょうか?」
私は男の瞳を見つめる。男の身なりはとてもよく、ミントの香りがする。両手には、ダイヤモンドの指輪。男はへらへらと笑い、酒臭い息をふぅと吐いた。
「いえね、ぼんやりしていたからあれと思いましてね。沁入さん、眠たいのですか? なら、僕の膝にどうぞ、なんて!」
私は微笑み、否定も肯定もしない。男はなにも言わず、私の手の中にくしゃくしゃの紙幣を三枚落とし、膝をすっと撫で、にやにやと笑う。
「………」
新規の客は、饒舌で話が誰よりも上手かった。だから、殴られたと知った時、まるで他人事のように、ぼんやりと男を見つめていた。
「……」
笑い声が気持ち悪い。精悍であったはずの男は、顔つきを変え、女である私を冷たい瞳で、見下ろしている。奇妙な歪み。男は別の生き物になった。濡れた瞳は鈍く光り、私を殴ったことでとても興奮していることが解った。
「……」
正直、彼の性癖など、私には解らない。ただ、殴られたことよりも、この男の素性を見抜けなかったこと。その事実が私の心を窮屈にする。私は呻く。耳が汚れた音を拾う。聞きたくもない。反射的に見上げ、目を細めた。唾液に濡れた男の歯と、白くくすんだ舌がぬるぬると口内に蠢く。男が大きな声を出したのだ。それは言葉と言うより、奇声であり、狂っていた。私は狂人にまた、ぼんやりするのだった。男の行動が理解出来なかった。男は私に唾を吐き、汗を滲ませ、もう、一度、私を殴った。おかしな出来事だと思った。
「──どうして、こんなことをするのですか?」
私はよろけ、壁に手を付きながら、男を見上げた。つり上がった瞳は血走り、男は不器用に喉を鳴らし、そこらじゅうの物を掴み、投げ、蹴り、楽しそうに笑っている。私は立ち上がり、息を吐いた。何が楽しいのか、男が何をしたいのか、私には判らない。壊れていく物を見つめながら、私はある男のことを想った。
生ぬるい風が吹いている。私は、時間をかけ、男をなんとか追い出すことが出来た。地に座り込んだ男は笑い、私を簡単で脆弱な言葉で罵った。だが、私には響かなかった。男は青ざめ、指輪を地に投げつける。私はすぐに拾い上げた。ダイヤモンドは美しい。男が何処かに駆けていく。私は弱い女ではなかった。手には指輪と男の忘れた財布。彼は、貴族のようだった。なら、いくらでも払えるだろう。妥当な慰謝料の額を私は知らない。名前だけを記憶し、薄暗い路地裏に財布を捨ててしまう。拾い上げた者は、幸福に笑うのだろう。この通りで、正直者などいない。財布を落とした者が悪いのだ。ああ、声が聞こえる。私は振り返り、暗闇を見たが、何もいない。引きずられた跡だけを見つけた。
「……」
前を向き、思う。此処に転がっているのは屍か、衣服を乱した者ばかりで、運が悪ければ、獣のような声を聞くことさえあった。富裕層向けの娼館が多いことが原因のひとつかもしれない。風。触れる臭い。
「……」
何処かで血が流れているのだと思った。だが、そう思ったことすらすぐに忘れてしまう。
「確か、あの角を曲がったところに……」
くぐもった声。ただ、会いたくなったのだ。だから、彼は扉を開け、闇を払うように歩き、思った。顔を見ることが出来たらいい。話が出来たらいい。何かを期待しているわけではない。ただ、会いたいと願った。少女の憧憬よりも清く、美しい想い。足元。散らばった硝子が砂に混じり、煌めく。彼は澱のような夜を闊歩する。精狂者は仮面の奥で笑う。湿ったゴミの臭い。値踏みするような視線、群がる虫。壁のガムに下品な落書き。路地裏に、動かない片足が見えた。靴は履いていなかった。
「……」
彼は唇を舌先で潤す。ハッとする。ああ、歌が聞こえる。若い男の声。左に曲がる。男は地に座り、見えない楽器を鳴らす。精狂者は男を見下ろした。時折、調子を崩しながら、男はへんてこな歌を歌う。特徴のない、綺麗な声。楽しいピクニック。食料は沢山。歩きながら、殺せば楽しい。首切り鋏でザックザク。血まで飲み干せ、突き落とせ。何処までも、遊ぼう。男はにこにこと歌い、唸るように叫び、立ち上がった。
「はは、歌いすぎてしまったね……困った、困った」
男は、片足を引きずり、精狂者をいないものとし、一度も目を合わせずに消えていった。青草の匂いと薬草の香りがする。とても、良い香りだった。
「……」
彼はまた、歩き始める。足取りはより、軽くなった。あと、少しで会えるかもしれない。男の歌で、彼はそう思った。
聞きなれた音が聞こえた。気配。ハッとする。
「礼拝殿? ああ、やっぱりそうだ!」
ぬっと、闇から出てきたのは、つるりとした仮面を付けた男。呻く。私は彼を間違えることは決してない。
「ジョセフ様……」
だからこそ、見られてはいけない。イレギュラーな出会いに後ずさる。ああ、見られてはいけない。どうして、此処に?
「うふふふふ、どうしても顔が見たいと思っていたのだが……会えるとは! 幸運とは今日のことを指すのだろう。とても良い日だ!」
ジョセフ・ハイマン (p3p002258)は親しげに、嬉しそうに歩み寄る。咄嗟に礼拝は頬を手で押さえた。隠そうとする気持ちと、ジョセフは、すぐにこの印に気がつくのだろう、礼拝は焦りながらそんなことを思っていた。雨。雨が降りそうなにおいがした。
「うん? どうしたのだ?」
ジョセフは問い、肩をぴくりと動かした。筋肉の強ばり。ジョセフは目敏く、私が隠そうとしたものに気が付いてしまった。ああ、どうして? じっと、見つめていると、ジョセフは礼拝の手首を強く握り、詰問のように尋ねた。
「礼拝殿、その傷……誰に殴られたのだ。私の知っている者なのか?」
「いいえ、新規の客でございます」
「客……考えられんな」
ジョセフは苛立ちを滲ませていく。ジョセフは礼拝を心配し、見たことのない男への怒りを膨らませ、喉を鳴らす。白猫が足元を駆けていく。ああ、分かりやすく怒って。
「……他に傷はないのだろうか?」
渇いた声に優しさが混じる。混じるのは優しさだけだろうか。
「ええ、顔だけでございますよ」
礼拝は言い、思い出している。少し前の、出来事。そういえば、男はミントの香りがした。肉が押し潰され、男の甲と自らの頬骨が軋み合う。男は笑い、甲を真っ赤に腫らしていた。痛みすら、快楽になるのだろう。男はまた、女を殴っているのかもしれない。可愛そうに。それはどちらへ向けた言葉? ぼんやりする。何故? どうしてだろう?
「……本当にそうなのか?」
漏れた声は、置き去りにされた子供よりも、か細かった。礼拝は小首を傾げる。ジョセフはぼんやりしている。
「ジョセフ様?」
捕まれた手首がジョセフの汗でしっとりと濡れていく。礼拝はジョセフに「大丈夫ですか?」、そう、言おうと思った。それなのに、ジョセフは礼拝の言葉を聞くことはなかった。ジョセフは黙ったまま、歩き出す。引っ張られ、簡単に私は彼の後ろを歩くことになる。つんとした臭い、瞬時に理解する。汚れた革の鞄が見えた。浮浪者。
「いいな、とても、美人だ。全部、脱がして、全身にキスしてぇなぁ!」
顔を上げれば、オッドアイの瞳。耳と尾、イエネコの特徴。声は女のようだった。
「なんだよ、俺が猫で悪いのか?」
すれ違ったスキンヘッドのブルーブラッドは私達を不満そうに見つめたが、すぐに下手くそな口笛を吹き、「なぁなぁ、右を曲がったところ、誰もいないぜ? 俺の穴場だからよ。使ってもいいよ」と人の良さそうな顔で笑う。ノコギリのような綺麗な歯が並んでいた。彼だか彼女だかの尾に巻きつけられた鈴が小さく鳴る。風鈴を思わせる、綺麗な音色。
「……」
私は答えることなく、下を向く。ジョセフは黙ったままだ。もしかしたら、単に聞こえていないのかもしれない。ジョセフはブルーブラッドを一瞥すらせずに、別の道をスタスタと進む。いつもより、速い速度。薄汚れた野良犬が私達を吠え、ジョセフに怯えたのか、すぐに逃げていった。今度は左へ曲がる。ジョセフはふらふらと道を選んでいるように思えた。
礼拝は目を細めた。このまま、どこに向かうのでしょうか。静かな夜は、とても、長いのですよ。ジョセフ様はご存知かしら? 礼拝は彼の後頭部をじっと見つめる。綺麗だと思った。
「礼拝殿」
強引に右に曲がる。視界に映る、ちぐはぐなグラフィティ。壁一面に描かれ、壊れた自転車が積み上げられている。物陰。薄暗く、潰れた空き缶が強風で、ころころと動く。ジョセフは手首を掴んだまま、礼拝を壁際に押し付けた。礼拝は目を細めた。ジョセフの香りが肺にこぼれ落ちていく。手首が不意に開放される。鈍くて熱い痛みが蛆のように沸く。
「あ」
気が付けば、大きな手が肩に触れていた。とても、熱くて湿った手だった。
私は見下ろし、小柄な少女を検分する。吐き出した息が仮面の中で濁っていく。
外傷、客、礼拝、支配、暴力、嫉妬、愛、憤怒、焦燥、不安、困惑、欲望、軽蔑、殺意、幸福、夜、笑顔。
彼女を見るたびに感情が鋭く尖っていく。両手は濡れた触手。止まらない。服の上から触れる彼女の身体。礼拝の匂いがする。汗ばんでいく。喉が渇いて仕方がない。
「ああ……」
不自然に息を漏らす。痛みは無いのだろうか。彼女はじっと、私を受け入れている。水が欲しいと思った。殴られたのは本当に顔だけだったのだろうか? スカートをたくし上げる。ぴくりと礼拝の身体が動き、美しい脚が見えた。脚? どうして、脚を?
私は混乱する。痛みをみつけたいと思った。
「……」
礼拝は黙ったまま、息を吐く。ジョセフが身体に触れている。これは道具としてのメンテナンス。それ以上のことはない。そう思いながら、礼拝は思わずにはいられない。ああ、これを、誰かに見られてしまったら? 言い訳の出来ない距離感。かっと熱くなる身体。恋人のように、ジョセフは離れない。ならば。ああ、ならば? 何を思う、こんな夜に。ああ、良いのでしょうか。礼拝は見た。この手を伸ばし、両足を絡ませることが出来るのなら。狡い心がせめぎあい、焦躁にかられる。雨。雨粒が頬に触れた。雨が降り始めた。それでも、彼の手は止まらない。雨にすら、気が付かないのだろうか。判らない。ジョセフは、触れる。私は呻いた。雨が彼を濡らす。眩暈がする。ジョセフの香り。今度は大きな眩暈が起きた。ああ、壊れてしまいそう。心臓は高鳴り、彼ばかりを想う。こんなにも傍に。抱きつき、誘うことが出来るのなら、身に纏う布すら振り払えるはず。
「……」
熱い息を吐く。彼がもし、躊躇ったとしても、私がこの手とこの脚を強引に絡め、何もかも奪えばいい。だって、心はもう、縛られているのでしょう? 礼拝は息を吐く。これは、一体、誰の言葉だろうか。困惑と誘惑に揺れる。雨が強かに打つ。鞭? 口元に浮かぶ三日月。衝動。
「今日の雨は温かいね」
ハッとする。誰がか駆けていく。男? いや、横顔を僅かに見ただけだった。目は合わなかった。ただ、濡れた、葉の匂いがした。嫌な匂いではなかった。遠くで楽しそうな歌が聞こえた。関係ないことばかり、脳に浮かぶ。礼拝はジョセフを見つめる。どんな仮面(かお)で、唇を震わせているのだろう。いや、唇はきつく結ばれているのかもしれない。判らない。ああ、貴方は、今、どんな仮面(かお)をしているのでしょうか。知りたくて、壊れて、壊して、しまう。それは、ジョセフ様、貴方も同じ心持ちでしょうか? ああ、貴方が脱げぬのなら、私がこの両手で。
「──私は何をすべきですか?」
歪んでいく。ジョセフは僅かに震える。声も温度も熱も汗も愛も、貴方だけのもの。指先で仮面を撫で、開口部を執拗になぞり、震えてしまいたかった。
「……」
ああ、そんなことがあり得るのだろうか。礼拝は喉を鳴らし、心を揺らし続ける。
幸か不幸か、ジョセフの検分は終わりそうにない。