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埋め尽くす、あわい
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夢を見る――
それは、昔々の物語。まだ『私』であったころの、淡い夢。
聖女と呼ばれた只の一人の女であった頃の夢だ。
「ミリヤ」
冷たい声音がその背筋を張った。ミリヤ・ナイトメアは「はい」と静かな声音で応えて振り返る。
桃色の髪を揺らし振り返ったミリヤは異端審問官である父の冷えた声音に「本日も務めて参ります」と答えた。
彼女は『不正義を断罪する』べくしてその家名を掲げている。
ナイトメア――悪夢が如き存在。
断罪の聖女と呼ばれしミリヤ・ナイトメアは異端審問官たるその父が苛烈にして残虐――冷えた判決を下したそれを遂行する。
父が不正義と判じれば断罪の聖女ミリヤがその刃を振り下ろす。
それが天義の悪夢、ナイトメア家であった。
「ミリヤ、迷いは捨てなさい」
その言葉はただ、冷ややかであった。父の瞳が冷たい氷の様にミリヤを刺す。
ミリヤはその言葉に背筋をピンと伸ばし「はい」と頷いた。
幼いころからそうするのが当たり前と教育されていた体は父の冷ややかな声音に肯定を返すだけだ。
ナイトメア。その名の通りの天義の悪夢。
「天義の闇であり『不正義』を断罪する悪夢であれ……それこそ『ナイトメア』家の誉れである」
その言葉は重く鎖の様に乙女の体に巻き付いた。
この家に生まれた以上はその言葉は、その意味はその体を蝕み続ける事をミリヤは知っている。
知っていても尚、心のどこかに蟠りが存在していたのだ。
息を潜める様にミリヤはそろりと廊下を歩んだ。夜の月は冴え冴えと屋敷の廊下を照らしている。
「お姉様」
影が伸びる。長く伸びたその影の主が自身の妹であることをミリヤは知りながら振り向く事はしなかった。
ねとりとした執着を帯びた声音は憧憬を響かせている。
「お姉様こそ『正義』の体現者。聖女の中でも一番のお方。
お父様は試されているだけなのです。どうか、どうか、気負う事無く。お姉様こそ完璧なのですから」
賞賛の声音に、あわいに揺れた心が確かな不和を齎した。
どしりと思い士の様に圧し掛かったその賞賛。
「そう、ですね」
「ええ、そうです。お姉様。天義の闇であり『不正義』を断罪する悪夢。
ナイトメアの家名に恥じぬ不正義を断罪する刃であらんとする聖女。ああ、お姉様は素晴らしいではありませんか」
うっとりとしたその声音にミリヤは何も返さない。振り返ることができないまま影が動くのを眺め続ける。
正義の体現? 不正義とは? 聖女とは――?
父の言葉の通りに誰かを殺し、妹の賞賛をその身に一心に受け続ける。
そうする事が出来たならばそれは天義の聖女として一番なのだろうともミリヤは考えていた。
異端であれば断罪する。
当たり前ではないか。
けれど――けれど、それは『殺し屋』と何が違うのか。
父が異端(ころせ)といった相手を断罪(ころす)。
その両手が人殺しとして血塗られていることには何ら変わりはないというのに。
「お姉様……?」
「風にあたってきます。おやすみなさい、メイヤ」
おやすみなさいませ、とドレスの裾を持ち上げて笑った長身の影。
それから逃げ出す様に走り出し、屋敷を抜け出した時に頬を撫でた風はやはり冷たかった。
誰も存在しない清廉で清純な白。
神の加護と神の聲。正義で塗り固められた都の中をミリヤは歩み続ける。
ゆっくりと、歩むミリヤは路地裏の喧騒に気づく。
暗がりの中に隠れた様に男が取り囲み一人の女へと――きっと、この国の住民ではないのだ。戯れにされたとて、神の聲が届かぬものならば仕方がないか――乱暴している。
普段であれば正義の徒として手を出すことはなかったのかもしれない。
ただその時は迷っていたこともあった。ミリヤは路地へと進み、乱暴されていた旅人の女を助け上げた。
ヤムーー任桃華(ヤム・タオファ)と名乗った彼女は立ち上がり何度もミリヤへと礼を言った。
「有難うッス! おかげで助かったッスよ!」
――最初は不思議な女だな、とミリヤは感じていた。
助けてくれたお礼がしたいという彼女に促されて歩き出したのも気紛れだったのかもしれない。
自身を見てもナイトメア家の『断罪の聖女』と知らない彼女の傍がその時は居心地よかったのかもしれなかった。
天義の一角に間借りしたのだという小さな部屋の中へ通され、お礼だと彼女は自身の出身世界の料理を振る舞った。
餃子と呼ばれるそれは薄皮に肉と野菜をくるんだ者であり、ミリヤにとっては異世界の食べた事もないものだ。
「……これは……?」
「これは餃子っス!」
にんまりと笑ったヤム。人懐っこい彼女に促されて口にした餃子はミリヤにとって生れてはじめて美味しいものと思えた。
それ以降だ。
こそりと屋敷を抜け出しては断罪の聖女ではなく一人のミリヤとしてヤムへと会いに行く。
其処に行けば自身に圧し掛かる責務も何もない。ただの、ミリヤとしていられるのだ。
ナイトメア家の断罪の聖女ミリヤではない、ただの一人の女として。
「そうだ、ミリヤに話したいことがあるっスよ」
「何?」
「故郷の話――と思わせといて、ボクの好きなアイドルの話っス!」
故郷の手料理と共に彼女が紹介してくれたのは『アイドル』と呼ばれる存在であった。輝かしい、自分の夢の話を。
天義と言う閉鎖的な国家には余りに居ない、明るくそして人懐っこく優しい少女。
「いつかボクは天義に『チャイナ系アイドルがいる料理屋』を開くっス!
そのアイドルの一人目に親友であるミリヤさんをスカウトするっスよ!」
そんな夢、叶う訳がないわと冗談のように笑ったミリヤに「いつかか必ずっス!」とヤムは唇を尖らせる。
素直に愛くるしい笑みを浮かべて、そして、ただ、真直ぐに夢を語る。
眩しい親友。
彼女といれば空っぽで、『断罪の聖女』と呼ばれるだけの虚ろな自分を埋めてくれる気さえもした。
あわいにあった女の体が初めて夢で満たされるとも、そう――思えた。
思えた、のに。
目の前にヤムが倒れている。それを抱き締めながらミリヤはゆっくりと顔を上げた。
淡々と、自身に科せられた仕事を遂行するナイトメア家の姿がそこにはある。
「不正義だ」
それに例外はないのだと異端審問官である父は言った。
「お姉様」
どうして、と失望と憤怒を浮かべ、鎌を手にした妹は私を見た。
ミリヤを眺めたメイヤの手には鎌がしかと握られている。
「逃げ――るっス」
そっと、ミリヤを庇う様に立ったヤムはミリヤの背を撫でる。
その一瞬の触れ合いだけ。故郷の手料理を振るまってくれた優しい彼女はくるりと振り返り笑っている。
「前はミリヤが助けてくれたっスから。……親友のピンチを救うなんてカッコイイじゃないっスか。
それに――ミリヤがアイドル一号になるっスよ? お店の女の子も守れずに何を護れるか! っスよ」
笑う顔が、何処までも不格好で。
どうして、とミリヤは声を震わせる。異端審問で悪であると、不正義であると断じられたことこそが全ての終わり。
『断罪の聖女』と呼ばれたミリヤ・ナイトメアはそこには居ない。今は不正義であるとそう言われた只のミリヤが居る。
家名さえそこにはなく、ナイトメア家の二人は『家族であったおんな』を見下ろすだけだ。
「お姉様は『断罪の聖女』でした。それが、こんな――」
失望しました、とメイヤは言った。振るわれた鎌の先を見る事がない儘にメイヤは走り出す。
ヤムが言った。
夢を叶えてほしい、と。
メイヤならきっとできる、と。
泥を啜ろうが、無様で老が、生きなければ夢は叶えられなかった。
親友の望んだ未来が為に、人殺しだった自分に『親友』と呼んでくれたヤムのために。
走って、走って、走った。
それから……
それから、二度とは天義に来ることはないと思って居た。
白き都は逃げ出したあの日と変わらず清廉であったはずなのに。
今は灰に塗れ、焔に濡れている。
人々が怯え、泣き叫び、蹂躙される恐怖を声高に告げている。
断罪ではない、これは虐殺だ。只の、人殺し。正義なんてない無様な国家のおわり。
「見てるッスか? ヤム……。
ホントはこんな所関わりたくないッスよ。けど、これは『ボク達』の証明ッス」
くすくすと、元聖女は笑った。
断罪の聖女なんかじゃない、『元聖女』のチャイナ系アイドルとして彼女はそこに立って居た。
「『ミリヤ』と『ヤム』――これは二人の夢の形っす。
ボクは『ミリヤム』。チャイナ系アイドル。ボクが夢を見させるんスよ。
この呆れる程に馬鹿な国に住む罪なき人に、『希望』という夢を――」