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遍く川はいのちを違う
登場人物一覧
――リディア!
そう、呼ぶ声がした。
ぱちぱちと、焔が爆ぜている。
鮮やかな新緑の美しい、薔薇の咲く頃であったか。
ファルカウから両親と一緒に出掛けている最中だった。10歳の少女と、その少女の両親。仲睦まじい家族に突如として訪れた危機は酷く残酷な運命を齎すこととなった。
何処からともなく立ち上った黒煙の中、リディアは父と母に庇われるように走る。
出来る限り火の手から遠ざかり家族全員の無事を保証できる場所まで、と。
「リディア、リゼル、大丈夫かい?」
「ええ、クロノ。リディアが少し疲れてきてしまったけれど――」
けれど、このまま走りましょう、と父と母は会話を交えていたのをリディアはぼんやりと聞いていた。
手を引く母に引っ張られるようにして、只、前へ前へと歩を進めているリディアにとって後ろから迫りくる火の手は死の恐怖にも似て居て。
ぐい、ぐい、と強く手を引かれるたびに「ママ、待って」とリディアは繰り返した。
その時、両親は焦っていたのだろう。あまりにも強大な火の手からまだ幼い娘を護り切れるかどうか――
その時、獣の発した叫声に父が足を止め、リゼルと呼んだ。
「貴方ッ――!」
「リゼル、リディアを連れて逃げろ!」
父の焦燥は確かにリディアにも伝わった。迫る火の手に前方には腹を空かせた姿。
浅黒い血潮を牙の間からだらだらと垂らした魔物はぎらりとその瞳を輝かせる。
落ちていた木の棒を投げつけた父が魔物の視線を引いたうちに、母はリディアの手を引き、木々の合間を抜けた。
ママ、パパは、と唇から漏れる。
待って、どうして、と慌てた声を漏らしたリディアに母は首を振り続けた。
「大丈夫、クロノは――パパは、死なないし、ママもすぐにパパの所に戻るから!」
リディアの手を引く母――リゼルははっと顔を上げた。
魔物の声が近い。
先ほどクロノが引き付けたものではない、もっと別の魔物の存在が其処にはある。
「ッ――!」
「ママァッ!」
恐怖に怯えた様に肩を竦ませたリディアをリゼルはぎゅ、と抱き締めた。
母の腕はカタカタと震えている。その怯えが自身と同じものであるとリディアは認識して、ママと小さく呼んだ。
「リディア、大丈夫、大丈夫だからね――」
唇から漏れたその声に、リディアが顔を上げる。
獣が迫っている。そっと母の衣服を握りしめようと手を伸ばしたその刹那、とん、とその身体が押された。
「え――」
「貴女だけはどうか、無事で――」
体が、勢いよく流れる濁流に飲まれる。
母が逃がそうと川にその体を落としたと認識したのはどぷん、と川に落ちる音がしたときだった。
それから――
それから、リディアの記憶は途切れてしまった。
あまねく記憶は川で分断されるように深い闇に沈んでいく。
息が、できない。
パパ、ママ――?
は、と意識が浮上する。見遣れば知らぬ場所。炎の気配も煤けた香りもしない深緑の片田舎。
「お嬢ちゃん!」
無事かい、と声かける老婦人に気づいてリディアはぱちりと瞬いた。
「ここ、は……」
「お嬢ちゃん、川で溺れて倒れてたんだよ。……意識を取り戻せてよかった」
暖かな布団をぎゅ、と抱き締めてリディアはきょろりと周囲を見回した。
「パパとママは……?」
その言葉に、老婦人は驚いた様に目を見開き首を振る。
「お嬢ちゃんは、一人だったよ」とそう告げられた言葉に、パパ、ママと何度もリディアは繰り返した。
「どこ……? パパ、ママ……?」
怖いよ、と布団をぎゅ、と抱き締める。
そう、口にしても、川が違えた運命の向こう側は見ることはできない。
「お嬢ちゃん、ほら……今はもうお眠り」
重たい瞼を閉じてリディアは確かに夢を見た。父と母が笑って名を呼ぶ様子を――