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螢石の廻廊
登場人物一覧
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薄灰の街。
ラクリマ・イースのブルーグリーンの瞳にはそう映った。
例えば、空を覆う薄い雲だとか。その雲に届きそうな程、高いビルの群れだとか。
ネオンの明かりは艶やかな色彩を生み出すのに、日の光の前には薄い灰色になってしまう街。
探求都市国家アデプトに存在する一区画、再現性東京2010街――『希望ヶ浜』に足を踏み入れたラクリマは靴底に感じるアスファルトの堅さに違和感を感じていた。
石畳よりも柔らかく、土よりも硬い感触。
「はぁ、不思議なものですね」
アスファルトが隙間無く埋められビルが立ち並ぶ町並みにラクリマは感嘆の声を上げる。
恋人も連れてくればラクリマと同じくキョロキョロと辺りを見回していただろう。
しかし、生憎と彼は別の依頼で留守にしていた。おそらく豊穣の小娘の所なのだろう。
彼には妹が居るから幼い女の子は気に掛かると以前言っていたような気がする。
「……」
何だか胸の辺りにどろっとした血溜まりがあるようでラクリマは眉を寄せた。
重苦しい空気はこの街のせいなのか、其れとも恋人が傍に居ないからか。
美しい金髪に碧眼。美麗な衣装を身に纏ったラクリマは『現代日本』を模した希望ヶ浜では人目を引いてしまう。遠巻きに刺さる視線が何だかむずかゆい。長い耳も彼等にはイケメンの外国人がコスプレをしていると認識されてしまうのだろう。不自由なのか寛大なのか。
寄越される視線を避けるように、ラクリマは歩を進める。
無辜なる混沌に召喚されてきた者達の中には、この世界の在り方に目を背け耳を塞いだ人々がいた。
特に現代日本かやってきた人々は練達の中に自分達の住み慣れた街を作りあげたのだ。
それが、再現性東京『希望ヶ浜』。
現代日本という彼等にとっての『日常』を守るのがこの街でのイレギュラーズの仕事であった。
だからラクリマが目指すは、希望ヶ浜に設立されたローレットの拠点。カフェ・ローレットである。
瞳を上げれば夕暮れのアラゴン・オレンジの光がビルの隙間に消えて行った。
――――
――
「ラクリマさんには至急この悪性怪異『夜妖』を倒して欲しいんです」
柔和な笑顔で視線を送ってくるのは、この街を影から護っている『掃除屋』燈堂 廻だった。
どうやら、他のイレギュラーズは別の依頼で出払っており、緊急性の高い依頼が舞い込んで来た所に、ラクリマが現れたという訳だ。
「おそらく、夜妖の能力自体は高くありません。でも一般人が巻き込まれ、夜妖の存在を見てしまう可能性があるので急行して欲しいんです」
これが幻想や深緑に住まう人々なら敵を倒すだけで済む話なのだろう。
けれど、希望ヶ浜の人々は『非日常』を許容しない。つまり、夜妖を秘匿しなければならないのだ。
「……別の所から来たイレギュラーズの方なら、面倒くさいと思われるかもしれませんね」
ラクリマは顔に出ていただろうかと指先を頬に当てる。
「いや。……ここに住んでいる人にとっては重要な事でしょうし」
深緑のカルト教団『エルムの梟』で生まれたラクリマにとって、教団の教えは絶対だった。
他を知らず、求められるまま使途となり、過ごしていた日々を思い返す。
其れは外から見れば奇妙であっただろう。けれど、その中に居る限り心地よい幸福感に包まれていた。
優しい揺り籠の中は、確かに安寧といって良いものだったのだ。
されど、ラクリマは『外』を知ってしまった。壁の外に世界が広がっている事を知ってしまった。
大切な存在を知ってしまった。知りたくない現実も。苦悩も。後悔も。
希望ヶ浜の住人だって同じなのだろう。知らなくて良いものを知ってしまう事が幸福に繋がるとは限らないのだ。目や耳を塞ぎ、今まで通りの日常を過ごしたいと思う事を否定することは出来ない。
ラクリマは沈みかけた思考に頭を振って終止符を打つ。
「大丈夫ですか? 気分が優れないようですが」
心配そうな廻の表情に大丈夫だと笑顔を見せた。
「ええ。問題ないですよ。それよりも急がないといけないんでしょう?」
「はい! 僕も一緒に行きますので」
トワイライト・ブルーに染まって行く空の下。走り出すラクリマと廻の声が木霊した。
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無事に夜妖を倒した二人は、カフェ・ローレットに報告をしたあと燈堂家に帰って来ていた。
今回は廻の夜妖憑きの能力を使わず、燈堂一門の門下生に『掃除』を任せたのだ。
戦闘を経て意気投合したラクリマと廻はそのまま酒盛りへと洒落込む。
「聞いてくらさいよ!」
「あい!」
顔を真っ赤にしたラクリマと廻が向かい合っていた。二人ともかなり出来上がっている。
「あいつ……俺のこ、恋人が、俺をほおっておいてぇ! ほうじょうのこむすえのところ行くんれすよ!」
「こむすえ? られれすか?」
ガクガクと肩を揺すられながら豊穣の小娘とは誰かとラクリマに問うた廻。
「やおよろずのおんらのこれす。妖怪におそわれてるところをたすけたですが、そのあと、またでくわしたんえす。その時も、キラキラしたおんなのこの瞳で」
自分の恋人に色目を使いやがってこんちくしょう! と呂律の回らない口でラクリマは叫ぶ。
「んふふ、好きなんれすね~?」
「違っ! そうじゃらいのれす!」
伝えたかった事は恋人が好きという意味合いではない。腹が立つという事なのだ。
ぽふぽふとラクリマの頭を廻が撫でた。
「かあいぃれすね」
「う、うわぁん! 違うのれす! ちがうのれす!」
頭を撫でる廻の手を掴んでラクリマは押し返す。
「わわっ」
その反動で後ろに傾く廻に、ラクリマも重心を崩して畳の上に転がった。
じゃれ合いながらひっくり返ったラクリマと廻は視線を合わせた。そこには酔っ払った真っ赤な顔。
「っ、ふふ」
「あはは」
それが何だか可笑しくて。何方からとも無く、くすくすと笑い合う。
ブルーグリーンの瞳を細め、寝転がったままラクリマは廻の手を握った。
「酔っ払いの戯言として聞いて欲しいんですけど。俺は好きな人が居たんです」
白い揺り籠の中で、ずっと一緒に居ると思っていた親友。
離れる事なんて考えもしなかった。失う事なんて微塵も思っていなかった。
「でも、彼は死んで、っ」
「……」
初対面の相手に話すには重すぎるものだ。けれど、酔った頭では自制が効かない。
ラクリマの口は次々に心の内側を吐露していく。
「とても大切な親友の事を、俺は好きだったんだって気付いたんです」
大切な物で満たされていたラクリマの心は、軋み砕け。伽藍洞の身体だけが残った。
けれど、親友が命を賭して守ってくれた『自分』を自らの手で壊す事は出来なかったのだ。
「だからもう。誰も好きになったりなんてしないって、失うぐらいなら、何も無い方が良いんだって。そう思ってたんですよ?」
廻の手をぎゅっと握ったラクリマ。零れ落ちそうになる涙を隠すように廻の手を額に当てる。
「それなのに、あの人はどんどん俺の中に入ってきて、勝手に居座ったんです」
出会いは雪がちらつく銀狼の森。共に戦った背中を覚えている。
二度目の再会はシャイネンナハトの夜。星降るインクブルーの寒空の中で、今と同じように酔っ払ったラクリマを背負って宿まで連れて行ってくれた。
「本当に強引で、めちゃくちゃで。でも……」
「でも?」
好きなのだ。
彼の温かさに包まれている時は親友の死も忘れる事が出来る。
伽藍洞の心が満たされるのだ。
「でも、それは……死んだ親友の代わり、なんじゃないかって……っ、うぅ」
ラクリマの心は揺れているのだろう。
それはラクリマ・イースという存在が清らかなる白だからこそ生じる葛藤だ。
親友の存在を忘れる事が出来ない自分が、他の人を好きになっても良いのだろうか。
不誠実なのではないか。
きっと、彼はラクリマの葛藤を全て許容し受入れて包み込んでくれるだろう。
優しさの抱擁の中に浸って未来だけを見つめていることができるのなら何れだけ幸せだろうか。
「俺なんかに付合わせて、いいのかって」
否。そうではない。不安なのだ。
本当は鋼鉄の翼を広げ今にでも飛び立っていくのではないか。
目の前から居なくなって仕舞うのでは無いか。
「……親友みたいに。また、居なくなったら」
耐えられないのだとラクリマは廻の腕の中で涙を流す。
「だったら、今のうちに……」
「ラクリマさん」
廻がラクリマの金糸を握られていない方の手で優しく撫でた。
「大丈夫ですよ。大丈夫。……僕はね、この街に来る前の記憶が無いんです。だから、過去に何が起きてこの街に来たのかも分からない。思い出したくも無い過去だったのかもしれないし、辛い記憶だったのかもしれないんですけど。でも、きっと。無くしてしまうよりは良いんじゃないかなって」
ラクリマの目尻に浮かんだ涙が止まる。
「辛い記憶だったと分かるからこそ、足が竦んでしまうかもしれない。
でも、それを持っている事で、違う選択を選び歩むことが出来る。僕には出来ない事なんですよ」
「廻さん……」
ラクリマが視線を上げれば廻の微笑みが包み込む様に向けられていた。
優しく慈しむ心に、何処か親友の事を思い出す。
何もかもを投げ出してしまいたい。泣いて追い縋ってしまいたい。
きっと廻はそれを許してくれるだろう。そんな安心感がラクリマを包み込んでいた。
ラクリマは廻の胸に頭を預けようとして、はたりと我に返る。
「……あー、その」
酔った勢いとはいえ弱音を吐いて、年下の子に諭されるなんて何と言う失態だろうか。
冷静になってみれば、恥ずかしさがこみ上げて来た。
恋人がそんな事を知った日には絶対にニコニコと笑顔で抱きしめられるに決まっている。
「な、内緒にしてください」
「はい。二人だけの秘密ですね」
流した涙は畳の上に染みを作った。
けれど、少しだけ心が軽くなったような気がして。
ラクリマのブルーグリーンの瞳が僅かに細められたのだ――