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酒は飲んでも
登場人物一覧
落ちた陽の代わりに街へ明かりが灯る。一つ、二つと増えていく其れは夜の訪れを示す合図になり、日中とは違う賑わいを見せ始めていた。今宵彩る明かりとして、トキノエが選んだこの酒場も例外ではなない。落ち着いた暖色系の明かりに似合う音楽と、語り合う人々の声が心地よく響く落ち着きのある酒場で彼は一人グラスを傾けていた。今日の酒は格段と美味い。内側から熱を帯びる感覚に目を伏せ、充足感に一息吐く……
という彼が望んだ平穏は遠慮のない扉の開閉音と品のない笑い声で打ち崩される。
「ハッハ!イイ酒場じゃねえか、ええ?」
「酒だ!何でもいい。酒持って来い!おい、聞こえてんだろ!?」
ずらずらと入ってきた男達は確かめるまでもなく既に酔っていた。扉近くに居た客は漂うアルコールの香りに顔を顰め、他の客は下手に関わらない様に視線を落とす。男らはカウンターの奥に居る店員に乱暴な物言いで酒を要求しながら店の傍らを占拠した。
一人酒を楽しんでいたトキノエも、他の客と同様事を荒立てない事を一番に考えていた。このままでは折角の美味い酒が台無しになってしまう。現状店や他の客に大きな被害がない以上、下手に首を突っ込まずに居よう。そう決めた途端である。
非常に運悪く、連中の一人と目が合ってしまったのだ。まずい、と反射的に視線を外すのも既に遅く、一瞬冷えた空気の中椅子から立ち上がる音が聞こえる。
「おい、テメェ。今睨みやがっただろ」
睨んでねェ。
「睨んだだろ、って聞いてんだよ兄ちゃん、ああ?」
だから睨んでねェ。
完全に目を付けられた。心中で湧き上がる文句の一つも、恐らく酔っ払いの耳に届きはしないだろう。こうなってしまっては下手に取り繕ったとして更に事が大きくなるだけである。ただ静かに酒が飲みたいだけだったトキノエにとってこれ以上の不運であり面倒もない。この場は一旦支払いを終えて立ち去るのが得策だと、懐から代金を取り出しテーブルに置いた。
「…悪かったな。すぐに出ていくから勘弁してくれ」
後は立ち去ってしまえばいい。店員には申し訳ないが、既にじわじわと込み上げ始めている苛立ちを抑える一番の方法はこれしかない。しかしながら、そんな彼の心境を連中が察する事など無かった訳で。
「は?喧嘩売るだけ売って逃げる気かよ、腰抜けが」
「謝って済むとでも思ってんのか?」
「ハハッ、早く帰ってベッドの中でメソメソ泣きてェんだろうよ!」
飛んでくるのは理解はおろか、罵声と煽りのフルコース。穏便な解決を提示したつもりが、どうやら完全に負け犬として下に見られてしまったらしい。下品な笑い声と怒声が響く中至極に冷静な対応をしているように見えるトキノエだったが――
実は既に爆発寸前。とんでもなくイラついているのだ。
短気の自覚はあり、高確率で手が出る自分の欠点を何とか理性で押しとどめていた。此処は店の中、店員や数名ながら客も居る状態。たかだか面倒な酔っ払いの絡み程度でブッツリいってしまっては、普段の努力……もとい今の努力が一気に水の泡になってしまうではないか。
(落ち着け、耐えろ……無視だ無視。前と同じ轍は絶対に踏まねえ……)
後は自分が立ち去るだけでいい、テーブルに置いた代金は店員が回収してくれるだろう。未だに聞こえる男共の声を振り払う様にして可能な限り意識に蓋をする。一番近くに居た男の横をすり抜け、怒りを鎮める為に握った拳はそのままに扉へ向かって足を進める。このまま冷静に、穏便に、何事もなく外に向かえるはずである。そう、何事もなければ。
こんな明らかに面倒な状況下でも、ちらほらながら他の客は居るのである。はた迷惑な男達の要求も無視する訳にもいかず、酒の準備もせざるを得ない。そして今まさに蓋の空いたボトルや酒のグラスを持った店員がテーブルへ向かっていく途中だったのだ。絡んでいた男がそれに気付くとトレイの上の酒を一つ引っ掴み、あと少しで店を出ようという所のトキノエを後ろから追い掛け、
事もあろうに思いっきり頭から中身をぶっ掛けたのである。
「っ、ははははは!!ザマァねェな!!」
「俺達からのサービスだ、有難く受け取っとけよ!」
被った酒が彼の髪をぺったりと濡らし、ぽたりと雫が落ちる。あと一歩で外に出られたはずの足はその場で止まり、先へと踏み出される事はなかった。酔っ払い共は彼を指差し笑っていたが、次の瞬間。彼に酒を見舞った男が宙を舞い、近くの仲間を巻き込んで落ちる。
ガシャン、ガラン、と物が倒れる音。先程まで煩い程響いていた笑い声はスッと消え、店内には一瞬静寂が戻った。限界に達していたトキノエの拳が、振り返りざまに男を殴り飛ばしていたのである。自分すらも思わず拳と倒れた男の姿を交互に眺め。
「……あ」
思わず声に出た。先程まで上手く蓋がされていたと思っていた感情が、無意識の行動として表れてしまったのである。ああ、やっちまった。理解した瞬間、抑えていたソレは盛大に爆発した。
「あぁ……あ゛ーー!!また手ェ出しちまったじゃねえか!!」
え、と音を零す間も許されず、近くに居た男は綺麗な飛び蹴りを食らい後方へ倒れ、免れたと思った他の仲間は回し蹴りで壁とお見合いし膝から崩れ落ちた。なお暴力ではない。何とか無事に切り抜けようとした自分に手を出させた男達に対する、盛大な
「穏便に!!済ませようと!!してただろ!?なあ!!」
穏便とは程遠い肉体言語にツッコめる猛者は居ない。倒れた男に馬乗りになっては容赦なく顔面を殴りつける。一回、二回、三回……繰り返すごとに微量の血が顔へ飛んでいるのだが、トキノエはそれすらもうお構いなし。一人を黙らせては次の男の胸倉を掴んで目いっぱいの頭突き。崩れ落ちる仲間を見ながら後ろ向きに扉へ逃げようとした男は、首根っこを掴まれ店内へ引き摺り戻された。
「何逃げようとしてやがんだ腰抜け野郎」
「ヒッ、ひぃいいっ!!」
「悪かった!すまない!この通りだ!頼むから見逃してくれ!」
「謝って済むなら俺は殴らなくて良かったんだよなあ!!」
「お、俺は何もしてねえだろ、俺は、やめ、」
「サービスだろ、有難く受け取れ!!」
先程とは一転して阿鼻叫喚の悲鳴、男達の泣き声が店内に響き渡る。中には床に染みを作るものも居たが、既に誰一人として逃がす気のない鬼神トキノエを前に、酔っ払い達は成す術もなく平等にシメられていく。リーダーらしい男が顔面ストレートを食らって沈んでいく姿を眺めた辺りで、彼は漸く我に返った。ちらりと視線を向けた店内。どうやら他の客は大乱闘の間に外へと避難していたようである。
「あー……」
返り血を浴びた顔のまま、カウンターの奥で怯えていた店員と目が合った。すっかり冷静になった頭と状況はパッと合致せず、何とか絞りだした「すまない」の言葉と先程置いた代金へ目くばせして頭を垂れる。自分が殴り倒した男達を間に挟んで、気まずさしかない状態で店を後にするしかなかった。
店から出ると夜風が彼の頬を撫でる。冷えた返り血を雑に拭って、誰かに見られる前に裏路地へ早々と足を進めた。すっかり冷めきった酔いが余計に体を冷えさせる。
(……何でこうなる……)
溜息と共に大きく肩を落としながら、足取りふらりと帰路を行く。自分の沸点を調節するにはまだまだ時間が必要になりそうだと、少し重くなったグローブを軽く握った。