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過去からの手紙
登場人物一覧
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子供たちの元気な声が、空高く駆けあがっていく。肌を炙る暑さの中、出展者のいない空きスペースで球蹴りをしているのだ。
「男の子たちは元気だね~」
ノアルカイム=ノアルシエラはしぼんだ声でつぶやくと、銀の髪が濡れて張りつく額を首にかけたタオルで拭った。
それにしても暑い。
「このままじゃ溶けちゃうよ。せめてお客さんが来てくれれば、気晴らしになるんだけどな」
依頼を請け負った時は、楽をして儲かる、と喜んだ。だが、考えが甘かったようだ。
フリーマーケットで依頼主の代わりに一日中、椅子に座っているだけ。ややっこしい金勘定はなし。品は相手の言い値で売ってよいという話だった。それならフリマ初心者の自分でも楽勝だと思い、引き受けたのだが……。
ここまでヒマだとは思っていなかった。冷やかしも来ない。
それもそのはず、売られているのは売り主のアパートから退去した人たちが、部屋に残していった廃棄品ばかり。脚が一本折れたイスなんて、誰が買うというのか。
(「そりゃ、言い値で売っていいっていうよね」)
この日何度目かの溜息をついたとき、突然、ノアルカイムの横に積み上げられていたがらくたの山が吹っ飛んだ。ばらばらと崩壊の音が、埃の入道雲とともに沸き上がる。
「――ふぇっ!?」
丸くした目に、坊主が三つ飛び込んできた。
「ごめんなさい!」
ノアルカイムは素早く回りを見た。どうやら他に被害は出ていないようだ。
立ち上がり、崩れたがらくたの中からボールを拾い上げる。少年たちの頭に形ばかりのげんこつを落とした。
「もっと広いところで遊んで」
少年たちはそろって口を尖らせ、いつも遊んでいた近くの空き地は隣のアパートが取り壊される準備で入れない、と言った。
ボールを少年たちに返し、がらくたを元の山に戻していると、指に鋭い痛みが走った。
血が流れて割れたガラスの上に落ち、白くて大きなエルクの絵に赤い点をつけた。
「この絵は――」
見たことがある。その瞬間、ひび割れたガラスとそっくり同じように、頭の中にもひびが入った。
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そういえば、依頼主のアパートはこの近くだった。少年たちが言っていた空き地は、きっと依頼主のアパートの横に違いない。
ノアルカイムは少年たちに空き地の場所を教えてもらうと、指をハンカチで包み、絵を手に歩き出した。誰にも店の番を頼んでいないが、お金を含めて盗まれると困るようなものはない。それよりもこの絵のことが気になって仕方がなかった。
エルクは長い脚のそばに描かれた千年杉の切株に比べてはるかに大きく、全身が輝き放つ純白の毛覆われていた。両手の指を天に向けて広げたような立派な角は、黄金色に燃え立っている。対照的に両の眼は真冬の空のように暗く冷ややかだ。鼻から吐かれた薄い息は蒼く、広がりに散りばめられた光の玉が銀河の星々を思わせる。
背景の森は深緑だ。根拠を問われれば困るが、ノアルカイムはそう確信していた。神の使い――そんな言葉が、胸の痛みとともに頭の中に走るひび割れの中から出てきた。
角を曲がるたびに正体不明の懐かしさに襲われ、切なくなる。まったく知らない場所なのに……。気がつけば走り出していた。
立ち入り禁止、と書かれたテープの下を潜り抜け、ノアルカイムは依頼主のアパートの中に入った。
薄暗い玄関ホールで腰の曲がった老女と出くわした。
「あ、あんたは――」
驚きの声をあげたのは老女の方だった。
「今までどこで何をしていたの?」
「なんのこと、ボクは……知らない……初対面だよ?」
老女は顔を曇らせると、濁った眼をまっすぐノアルカイムに向けて、「シエラ……ノアルシエラ=ノアルカイムじゃないのかい? ここの二階に住んでいた」と言った。
その瞬間、ノアルカイムの指先が痺れ、白いエルクの絵が暗い床に落ちた。
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夕暮れのベンチで手紙を開いた。
二年前、もう一人の自分――ノアルシエラが自分に当てて書いた手紙だ。
――記憶をなくした自分へ。怖がらないで、大丈夫よ。初めてじゃないから。
それは大召喚の日に自分が持っていた手紙と同じ書き出しだった。
ノアルシエラは新しく自分にあてて手紙を書いた後、白いエルクの絵の後ろに入れてあった古い手紙と取り換えた。その直後、ざんげに召喚されて空中庭園へ飛ばされたのだ。数年分の記憶をアパートの一室に残し、古い手紙を手に持って。
手紙にはアパートで暮らし始めて仲良くなった人たちのことのほか、深緑のある一族が白いエルクを神の使いとして崇めていること、その一族の長は代々女であることが書かれていた。
――長は必ず双子をはらむ。でも、産むのは一人だけ。長は双子の片割れを神の元に残し、一族と世界の安寧を手に入れるのだ。
母は私たちを逃がした? 捨てたのではなく?
最後に、伝承を詳しく調べてみる。カイムのために、と書かれていた。
手紙を畳む。
風が濡れた頬を撫でた。