SS詳細
あなたの貝になりたい
登場人物一覧
●波の音
その
さんざめく潮騒のようなこの鼓動を、その耳に伝えたいと願った。
幻想種のような長く尖った耳を持つ彼女は、己を異世界からの旅人だと言った。
けれど彼には遥かな海の向こうから流れ着いた、乳白色の貝殻のように思えた。
貝には海に沈んだ太古の記憶が閉じ込められていると言う。
彼女の耳の奥にどんな異世界の記憶が眠っているのだろう。
「また見ているのね。そんなにわたしの耳が珍しい?」
「耳は海の響きを懐かしむ貝の殻だと言う。貴女の耳からは何が聞こえるのだろうと思って」
「それはきっと此処ではない世界のことよ。聞いてみる?」
彼女が横で垂らした前髪を掻き上げる。
彼は耳を寄せて彼女の中の海を聴いた。
●時の女神
「時間、歳月、それから記憶……。タイムは時の女神の名前だ」
《幻想》の若い騎士は、少女のような年上の
タイム (p3p007854)と名乗った彼女は異世界から来た旅人であり、ローレットから派遣された
《幻想》を侵略せんと目論む《鉄帝》の私掠部隊を抑えるために派遣された者達。
その中で彼女だけが唯一女性であり、回復を担い戦いを補う魔法使いでもあった。
「薬草の名前から付けられたのかと思っていました」
「タイムは防腐剤としても使われる薬草……つまり時を遅らせる。ですから時の女神の名前が与えられた。貴女は癒し手だから、その名にふさわしくと願いを込めて付けられたのだろう」
「あなた、博識ね。そんなこと言われたのは初めて。騎士さんはみんなそうなのかな?」
「騎士として認められるには教養も必要だからな、これくらいは知っているさ」
戦いに備える間のひとときが二人を近づけ、二人だけの記憶を編み上げる。
彼の言葉がタイムの心を擽ると、熱は伝わり耳まで染まる。
タイムの笑みが彼の胸を打つと、高まりは早鐘を鳴らした。
「貴女は元の世界に帰りたいのか?」
「分からないわ。記憶がないもの」
「……世界を跨ぐうちに時の狭間でなくしてしまったのかもしれないな」
「思い出せないのは残念だけど、仕方がないわ。今は此処で生きているんだし」
「この世界で新しい思い出を作ればいい。なくした記憶の分もたくさん。私のことも覚えていてくれると良いのだが……」
タイムが微笑むと彼は彼女の長い耳を見る。
耳の内側は血潮を透かして仄かに色づいて、貝殻の螺鈿の光彩のようにも見えた。
その中に秘められた記憶の一部になれたなら、どんな美しい夢が見られるだろう。
金色の髪は夕陽を浴びて輝く砂浜の色。
嵐の前のひととき、平和な凪の情景だ。
●貝の記憶
「貴女を汚すことを許して欲しい」
戦火に焼かれて逃げ惑う人々。
炎に追われて飛びこむのは河。
流される彼女を掬い上げれば、人目避けて洞窟と連れ込んだ。
彼は服を脱いで毛布を被ると、凍える彼女の身を抱きしめる。
幼い頃の隠れ家に残された毛布は埃にまみれ、裂けた己の腹から流れる血は彼女の肌を汚す。
失いゆく命のありったけを熱に変え、冷え切った身体へ伝われと抱きしめる腕に力を込めた。
「騎士として戦場に斃れるは本望……思ったより深手か……。だけど時の女神は私に機会をくれたようだな」
時よ、止まれ。命の砂時計が落ちるのを遅らせよ。
誰かが見つけるその時まで。
時よ、止まれ。私の命の砂を一粒残らず貴女へと。
彼女の温度が失わぬように。
彼女の耳に口唇を寄せると、眠る彼女が擽ったそうに身を捩り。
彼女の耳に吐息を掛けると、温い風が少しだけ赤味を差し込む。
「貴女が目覚めたとき、私は最早貴女の癒しの手も届かぬ亡骸となっているだろう」
聞いて欲しいことがたくさんあった。
共に刻みたかった思い出という時も。
冷たい耳の縁を軽く喰んで甘く囁く。
せめて声だけでも覚えていてくれと。
「もしも貝になれたなら、貴女はずっと私のことを覚えているだろうか?」
流れる血、止まる時。
耳に残る、貝の記憶。
長い時を生きる彼女の、永遠に等しい一瞬。
告げられなかった想いは、無意識の底へと沈んでいく。
●わたしの耳は貝の殻、あなたの声を懐かしむ
「貝殻を耳に当てると、波の音が聞こえます。何だかとても懐かしい気がするのは、あなたを思い出すからかな?」
タイムはそっと己の耳に巻き貝を当てる。
この耳を貝殻のようだと言った人。
時の女神の名だと教えてくれた人。
耳を付けて聞いた彼の胸の高鳴り。
耳に口寄せ囁いた彼の言葉の調べ。
「覚えているわ、ずっとあなたのこと、あなたの声……」
打ち寄せる波は足を濡らし、砂を攫って引いていく。
もう手の届かぬ時の果てへ、彼の記憶を連れ去って。
だけどタイムが長い耳を澄ませるとき、彼の声はいつでも彼女に繰り返す。
貴女の貝になりたい、と──