SS詳細
ニルの出会い
登場人物一覧
閉ざされた森の奥に朽ち果てた廃家が山のように連なっている。黄ばんだ地図を持ち、旅人は老いた一匹の雌犬とともに歩いている。ロングコートは風に揺れ、南国の花の香りを放ち、黒色のブーツは闇を型どる。旅人のぼろぼろのリュックには食料と道具、コイン型のチョコレートが数枚入っている。
「レニー、どうしたの?」
旅人は愛犬を見つめる。レニーはか細い鳴き声を上げ、ちらちらと茶色の瞳を旅人に向ける。
「そっちではないけど、何かあるんだね?」
旅人の言葉にレニーは頷くように駆け出す。湿った土が旅人の頬に跳ねた。旅人はびっくりし、すぐに笑った。
追いかければ、目の前には多くの廃家が並んでいる。白く錆び歪んだ扉を、柔らかなケーキに触れるように旅人は押し開け、室内に入っていく。室内はとても暗い。それに足を踏み出す度にぎぃぎいと床が軋み、埃が舞い上がった。興奮したレニーの声。旅人はゆっくりと進み、立ち止まった。扉は半開きで、足元にはレニーの足跡。部屋を覗けば、緑色に光る二匹のクラゲが上下に落ち浮かぶ。奇麗だった。クラゲは痩躯の旅人よりも大きい。旅人は小首を傾げた。一匹のクラゲの上に
「どうして、こんなところに?」
「ニル眠ってました……」
旅人はハッとし、身を強張らせる。ニル(p3p009185)はクラゲから降り、目を擦っている。
「あ、えと……? おはようございます」
ニルは頭を下げ、柔らかく笑った。その様子に女は笑い、リュックを探り、ニルの前にチョコレートを差し出した。銀紙が少しめくれている。
「これはなんです?」
秘宝種。鎖骨の間のシトリンはマフラーによって旅人には見えない。
「私はいつも、出会った人にチョコレートを渡すんだ。大丈夫、ちゃんと食べれるものだよ、犬には毒になるけどとても甘くて美味しいから」
女の言葉にニルは好奇心がいっぱい詰まった瞳を向ける。
「いただきます」
両手をあわせ、ニルは銀紙をそっと剥がし、チョコレートを摘まむ。
「少しぬれてお金のようにかたいです。かんでもだいじょうぶですか?」
「大丈夫」
ニルは安堵し、チョコレートを口に入れる。
「──!」
チョコレートは指先で触れたよりも硬い。上顎と舌の間でじわじわと飲み物に変化するチョコレート。舌の上でチョコレートが滑っていく。ニルは舌を動かし、チョコレートを追いかける。女は微笑んでいる。
「ちいさくなってきえます」
食べ終われば、口の中がべたついている。味はよく解らなかった。ただ、糖分だけを感じた。
「これがおいしいですか?」
「うん、私は大好きなんだ」
女は嬉しそうに笑い、ニルを見る。ニルは瞬きをした。不思議な気持ちだった。ニルは自らの胸に触れる。なんだろう、心がぽかぽかする。
「じゃあさ」
女は屈み、リュックから沢山の調理器具を取り出し、「今からお昼ご飯にするよ」と笑う。
即席の円形テーブル、椅子に女とニル、涎を垂らしたレニーがちょこんと座っている。テーパーキャンドルがテーブルの中央で青々と燃えている。沢山の皿、コップ、フォークとナイフ、スプーンがあった。ニルは目を輝かせた。心がそわそわする。
「リラ・レックマン特製の真っ青たまごスープにごちゃ混ぜピザ、バニラ草のサラダにデザートはピンクのグミだ!」
「真っ青たまご? ごちゃ混ぜピザ?」
「うん、温かいうちにどうぞ」
「ニルたべます」
空色のスープをスプーンですくい、そっと口に含んだ。ニルはリラを見た。水のように身体を流れるスープ。熱くはなかった。実際、味も美味しさもニルには解らない。ただ、スープを飲むたびに夕暮れの風に外套をなびかせる旅人の姿をぼんやりと感じる。
「……?」
「いつも通り、美味しくできたな!」
嬉しそうな旅人の声──ニルはパッと顔を上げ、目を細めた。そして、コップを傾ける。
「あ、すこしにがいです」
「ドラゴンアイっていう薬草を乾燥させたお茶なんだ。美味しくないけど、ずっと前にレニーが見つけてくれて飲むと元気になれるよ。あ、でも、人によっては美味しいかも」
「えへへ、ニルげんきです」
ニルは笑う。これはおいしいけどおいしくない。ニルはごくごくと茶を飲み、にっこりと笑う。
「ふふ、それは良かった! ニルさん、ごちゃ混ぜピザにタバスコをつけるのもいいよ。あー、うまーーっ!!」
ピザを食べ、リラは唸る。
「この黄色はなんです?」
「それはね、いちょうサーモンをスモークしたんだ。はい、レニーも食べていいよ」
リラが皿にピザを二枚置き、レニーの前に出した。
「わ、すごいです!」
ニルはがつがつとピザを食べるレニーに驚く。
「これがおいしいですか?」
「うん、美味しいだね」
ニルはリラの言葉に頷き、タバスコをかけ、ピザを口にする。しっとりもちもちのスモークサーモンが香ばしい。チーズのふにゃふにゃの酸味。すぐにタバスコの辛さが全身を貫く。
「!?」
舌先が刺されたように痛くてニルはびっくりする。
「辛いかな?」
「たのしいです」
「よかったなぁ、あーうまっ!」
ピザを頬張るリラ。ニルは眩しそうに目を細めた。リラが嬉しそうに食べる、その表情が好きだと思った。たのしくてあたたかい。もっとたべたいと思った。
「いちょうサーモンはね、海の町で買ったんだ」
「海の町ですか?」
「うん。近くに海岸があってそこに住む生き物を売ったり買ったりして生活をしてたな」
「おいしいですか?」
「ふふ、そうだね、みんな、日焼けして酒場で美味しいものを食べていた。例えばね、空を飛ぶ鳥を焼いたものとかね。特製のタレがあまじょっぱくて美味しかったなぁ、鳥も柔らかくて幸せだった。また、食べたいなぁ」
「おいしいは幸せです?」
「うん、食べることも幸せだけど大切な人達と食べて沢山笑って……それこそね、美味しいがもっと美味しくなるかもしれない。一期一会の出会いもいいね、知らない食べ物を見知らぬ人と食べることもまた、美味しい。目で美味しさを感じることもできる」
「ぜんぶがおいしいです?」
「そう。だから、私も君と食事が出来て嬉しいんだ。このサラダはね、宿屋に泊まった時に食べたサラダを真似ているんだ」
「どうしてです?」
「私もその美味しさを誰かに教えたかった。料理は思い出の共有かもしれない」
リラの言葉を聞きながら、オレンジ色のソースがかかったサラダを頬張る。ぱりぱりでしゃくしゃく。ソースは甘く、塩気を感じる。無言で咀嚼するニル。
「たくさんかみました!」
「偉いね、このサラダは栄養がいっぱいなんだよ」
「栄養ですか?」
ニルにとっては解らないことだった。ニルにリラは優しい眼差しを向ける。
「うん、食べることで身体も心も元気になって欲しいんだ。ほら?」
リラはピンクのグミをニルに一粒、手渡した。グミは鳥の形をしていた。
「ありがとうございます」
ニルは口に含んだ。グミは甘い。でも、チョコレートのように溶けはしない。ニルは首を傾げた。
「噛んでごらん?」
優しい声に導かれ噛んでみれば、柔らかさの中にしっかりとした弾力があった。甘さが魔法のように濃くなっていく。
「おいしいです」
ニルは無意識に呟き、沢山のおいしいが詰まった腹部を幸せそうに撫で笑った。そして──また、ピザに手を伸ばした。