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ラクロスと行人の話~20thアニバーサリー~
登場人物一覧
酒精の薫りくゆるローレットのバーカウンター。年季の入ったべっ甲色のそれは濡れているかのように艶光る。行人にエスコートされ、カウンターに座ったラクロスは少しばかり緊張した面持ちだった。
「肩に力が入ってるね?」
「ああ。食事に来たことはあるけれど、酒場として利用するのは初めてだから不思議な気分だ」
普段ならチキンステーキや煮込みハンバーグを頬張る席なのに、緊張のせいだろうか、今日は大人な雰囲気が漂っているようにラクロスには思えた。
それもそのはず。今日はめでたくラクロスが成人と相成った日。今日のこの日を境い目に大人の世界へ足を踏み入れるラクロスのために、初めての酒を味わいに来た。良い思い出になればいい、できれば気持ちよく飲んでほしい、行人はそう思う。
「……なんというか、場酔いしてしまいそうだ」
「はは、あれはあれでいいものさ。楽しい気分になれたなら勝ちだよ」
「そういうものかな」
「そうさ、ようは嗜好品だからね。無理してまで飲むものじゃない。酒は憂さの晴らしどころと言うけれど、俺はそうは思わないな。おしゃべりするときの潤滑剤くらいだよ」
「潤滑剤、なるほど。普段できないような話も酒の席では話せるというしね」
ウェイトレスがメニュー片手に注文を取りに来た。これまではスルーしてきたドリンクの欄をラクロスは睨みつける。……たくさんありすぎてどれを選べばいいのかわからない。行人が相好を崩した。
「とりあえずビールというのも風情がないね。それにあれはすぐ腹が膨れるし。かといっていきなり酒の濃いカクテルもどうかと」
「ならどれがいいかな。決めてくれるかい行人君」
「そうだね……最初はサワーから入るのがいいかな。ラクロスは紅茶はよく飲むほう?」
「ああ」
「ならそれでいこう」
行人はウェイトレスに顔を向けた。
「紅茶サワー軽めシロップ多めをひとつ、俺にはバランタインをストレートで」
かしこまりましたとウェイトレスは腰を折り、カウンターのバーテンダーのもとへ戻っていった。
やがて盆に乗った注文の品がやってきた。
「行人君のカップはずいぶん小さいね?」
「ラクロスのは飲みやすさ重視、俺のは風味重視だから入れ物が違ってくるんだ」
そうなんだねとラクロスは行人のショットグラスを見つめた。薄いガラス製のそれは琥珀色の液体を抱いてバーの照明の下、光って見える。ラクロスのもガラス製、ただ大きさはティーカップくらい。逆三角形のカップ状でシルバーの持ち手がついている。行人が自分のグラスを目の高さまで持ち上げた。
「それではこの記念すべき日に」
「「乾杯」」
ちりん、ガラスの触れ合う涼しげな音が鳴る。ラクロスは少しだけ、ほんの少しだけ舐めるみたいに初めての酒を口にした。
「あまい」
「シロップ多めだからね」
「レモンティーだね。それに何か別の物が混じってる」
「そうそう。それがお酒」
思っていたよりずっと口当たりがよい。慣れ親しんだ紅茶がベースだからというのもあるだろう。今度は少し勇気を出して一口、口に含み味わってみた。レモンティーの爽やかさの中に確かにふくいくとした何かがある。それが舌の上で踊り、ラクロスの味覚を魅了した。
「うん、おいしいねこれは」
「よかった。つまみも頼もうか。甘いものにはしょっぱいものだ。何がいい?」
「今日は全面的に任せてもいいだろうか」
「かまわないよ」
行人は機嫌よくナッツと鮮魚のカルパッチョを注文した。するとカルパッチョが届く前にナッツがやってきた。ナッツの塩気はたしかに行人の言う通り酒を進ませて、気が付くとラクロスのグラスは空になっていた。
「もう飲んでしまったよ」
「調子はどう?」
こちらを気遣う行人の声にラクロスはくすぐったげに笑った。
「正直なところ、酔った気がしない。本当にレモンティーをいただいただけのような気がするよ」
「それだけ余裕があるなら次はワインを飲んでみようか」
「ワインか。銘柄がたくさんあってとっつきにくいイメージだね」
カルパッチョがやってきた。透明感のある魚の切り身が皿の上で黄金比を描き、そのうえからソースがさらりとかけられている。
「いろいろあるように見えるワインだけど、基本は三種。赤、白、両方を混ぜたロゼ。赤は肉料理に、白は魚料理に、ロゼは辛口甘口をお好みで」
「ということは、このカルパッチョには白ワインが合うのだね」
「正解」
行人はフルーティーで香り豊かな辛めの白を選んだ。ラクロスは行人が選んだのならはずれはないだろうと、ワイングラスを取り……。
「……けっこう、匂いがするね」
「度数もサワーより高いよ」
「そうか、本格的なんだな」
再び乾杯をかわし、ラクロスは酒精の香りに気おされてまた舌先で舐めるだけにした。
(すっぱい!)
ラクロスの言わんとするところを察した行人が口の端をあげる。
「ワインの味わい方にはコツがあるんだ。思い切って一口いってごらん」
ラクロスは行人の言う通り、くいっとワイングラスを傾けた。とたんに弾ける果実の香り。ビロードのような舌ざわり。先ほど口にしたのとは別物だ。
「すごい、本当に味が変わった」
「そこでカルパッチョを一口」
「……うまく言えないけれどとてもおいしい」
「マリアージュというそうだよ」
「本当にすごいね。未知の扉を開いた気分だよ」
「ふふっ、初めてだからってあまりはしゃがないようにね」
「うん、だけどやっぱりアルコールの匂いが少し気になるかな」
「そうか。ワインは会食の定番だ。慣れておくに越したことはないよ王子様」
「覚えておくよ」
「そのうちいま苦手だと言ったその香がいいと思えるようになるものだから、のんびりゆっくり行こう」
「そうだね。まずはお酒そのものに慣れないと」
とはいえそうガブガブ飲むものではないので、行人は慎重に次の一杯を選んだ。少し冷えてきたとラクロスが言っていたので、今度は果実酒のお湯割り。
「ハンディオレンジの果汁を混ぜてあるから飲みやすいと思うよ」
「ハンディオレンジ?」
「うーん、海洋やカムイグラだと蜜柑と呼んでいたね。皮が薄くて手で剥けるからハンディオレンジ」
「おもしろいね。それでは味見といこうか」
ラクロスはグラスに口をつけた。甘くどこか優しい香りが鼻腔をくすぐる。
「本当だ。最初のサワーみたいにジュースのようだよ」
「お湯割りはまわるのが速いから気を付けろよ」
「大丈夫大丈夫、一杯目だって平気だったし、このくらい」
おやと行人は思った。ラクロスの気が大きくなっているぞ。顔には出てないが酔ってきたな。
「チェイサーをひとつ」
バーテンダーに直接頼んだ行人は運ばれてきた氷水をラクロスの前に置いた。
「これは?」
「酔い覚ましの水」
「まだ酔ってないよ?」
そういうラクロスの目元はほんのりと赤い。瞳も眠たげでぽわんとして見える。髪をかき上げるしぐさは普段通りだし、意思疎通も問題ないレベル、だけど念には念を入れようと行人は思った。おうちに帰るまでが記念日なのです。ラクロスをほどほどの酔いにおさめ、無事家に帰らせて新しい朝日を拝んでもらうまでがミッション。見極めは難しい。
徐々に、徐々にラクロスに酔いが回ってきた。同時にご機嫌度が上がっていき、にこにこと笑顔を振りまく。目を見張るほどの男装の麗人であるラクロスがそうしていると普段の堅苦しさがほぐれ気安い雰囲気になる。いつしかラクロスの周りには人が集まるようになってきた。行人としては歓迎しかねるが、ラクロスの酒量をセーブするのが自分の仕事と割り切って隣で様子をうかがう。
「よお姉ちゃん、楽しそうだな」
「うん楽しいよ。今日は私の誕生日だから、行人君がお酒を飲もうと誘ってくれたんだ」
「おっ、酒場デビューか、そいつあめでてえ。姉ちゃん、これは俺のおごりだ」
バーテンダーへ注文を通そうとする男を行人は失礼にならないよう遮った。
「気持ちだけ受け取るよ。これ以上はほどほどにしないとね」
「ははは、ナイト様がついてるんじゃしょうがねえな。姉ちゃん、またいつか一緒に飲もうぜ」
「うん、その時はよろしくね、ばいばい」
ラクロスは席に戻る男へ笑顔のまま小さく手を振った。
「酒場には新しい出会いがあるんだね。実感したよ」
「そうだな。けど一人で飲むのはやめておいたほうがいいかもしれない」
「どうして?」
「いいヒトばかりとは限らないからさ」
「そうなんだね。行人君はよくわかってるなあ」
きらきらと目を輝かせながら行人の顔を覗き込むラクロス。曇りなく正面からまっすぐにみつめてくる様は連れ去りたくなるほどで……。
(飲んで無邪気になるのはいいが、無防備すぎるのも考えものだな)
「行人君? どうしてそんなに難しい顔をしているの?」
「ん、ああ、ラクロスがお持ち帰りされたら俺の責任だなと思ってな」
冗談めかして言ったセリフに、ラクロスはとろとろと眠そうにこくびをかしげた。
「そんなの行人君がいるから大丈夫に決まってるじゃないか」
「ラクロス……」
「なぁに?」
「そういうことは誰にでも言うものじゃない」
「? 行人君だから言ったのだけど」
行人は自分の顔を掴むように覆い隠した。たいして飲んでいないのに頬が熱い。不意打ちがもろに入ったとまでは言えない。ふたりの距離はまだそこまでの関係。吟遊詩人のつま弾くリュートにあわせてラクロスが小さな声で歌いだす。右に左にゆうらり揺れながら。
「楽しいね行人君」
「そうか、それは何よりだ」
そっけなく返した行人はまだ熱い頬を拳でごしごしとぬぐった。やっぱりすこし飲ませすぎたかもしれない。口当たりの良さを重視したものだから、それこそラクロスの言う通りジュースのように飲めるものばかりにしてしまったかも。
これは次の来店時も一緒に来てやらねばなるまい。その次もその次も。できるならずっと、彼女の隣の席は自分のものでありたい。そう願いながら。