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チューベローズを捧ぐ
登場人物一覧
朝とも夜ともない、なんとも曖昧な時間だった。
いつの間に眠ったのか記憶にないが、妙に冴えていて二度寝の気分でもない。
同じく早起きのペットでファミリアーの鴉たちに小さく挨拶をして、鳥籠と窓を開けてやる。
鴉たちは朝に放鳥すると昼には帰って餌をねだる可愛さと賢さがあり、和む。
なるべく音を立てないように身仕度を済ませ、窓際に座って外を見る。
思考がまとまった所で貴重品と筆記具だけを持って出る。
きんと冷えた空気を足元に纏いながら向かった先は白い家。
もう何度も通い慣れた、自室と同じくらい落ち着く場所。
玄関アプローチの門がひとりでに開き、誘われるままに扉を開ける。
いつもこの扉を開けてくれるのは、ヴォルペだった。
薄く微笑んで受け入れて、言葉と態度で甘やかしてくれた。愛でてくれた。
初めてヴォルペと関係になった時、実は罪悪感があった。
喪った恋心を仮初めのもので埋めるには、あまりにもヴォルペは丁度良すぎた。
一生の恋心を捧げた、けれども敢えなく亡くなった男にヴォルペは似ていた。
器用なようで不器用な在り方や、悪人ではなく
これで本気になっていれば、良くある悲愛だと笑い飛ばせたが強固な心は恋にはしなかった。
だからその瞳に熱がないことも、本気を向けている人が他に居ることにも気付いた。
こちらも向こうも本気じゃない。ただ埋まらないものに蓋をしているだけの関係。
こんな誤魔化しは心から血が噴き出すばかりで、
解っていても淋しさと哀しみはこの身の底から出て行かない。
その隙間にヴォルペが入り込んだ、そんな始まり。
──良いよ、幾らでもおにーさんに甘えて。
一人きりで泣くくらいなら、代用品にすれば良いとあの男は囁いた。全くもって悪魔じみていて、ひどい男である。
共に食事をしてじゃれあったリビングを通り過ぎる前にキッチンを見る。
「……あの卵料理、美味しかったな」
人に食べさせて貰えないと味が分からない割には料理も菓子作りも上手だった。
特に菓子類は食べれないのに良く出来るなと感心したものだ。
菓子でも料理でも、ヴォルペが作ったものを食べて嚥下した時の一言めは決まっていた。
──ねえ、美味しい?
少女のようなそれが妙に可愛くて、笑わないようにしていたことを、向こうは気付いていただろうか。
初めてこの家に来た時は痺れ薬を客に塗り付けられた直後で、少しでも薄める為に風呂に入れられた。
その際、服の脱がせ方が異様に巧くて困惑した覚えがある。
埃の一つすら落ちてない廊下を進んで広い部屋に向かう。
その部屋はダンスホールと言えば聞こえは良いが、実際は使う予定のない唯一の部屋だと家主から聞いていた。
オーディオ機器と出窓、薔薇レリーフの壁。
その部屋に今、空っぽの棺が無意味に置かれた。そう、無意味だ。遺体なき葬式なんぞ自己満足だ。
そうだと思っていても遣らずにはいられなかった。先に進めそうになかった。
「あの
悔しそうに笑って、棺に腰掛けた。それから便箋と万年筆を取り出して動きを止めた。
この世界に墜とされる前から世界と自分に絶望して生きてきた。
その始まりは喪失。生まれてすぐから物心つく頃まで、大切な人ばかりが死んだ。
──もしかして死神なのでは?
──やはり不吉な双子だから……。
──呪われてるんだよ、あの子。
周囲からの声、自身の見られ方、その全てが見えていた。聞こえていた。
いつしか願うようになった自身の死。それこそが最上の救いに見えている、今も。
その中で出逢った最愛の男とヴォルペ。
最愛の男は堅気ではなかった。だから一緒に逝ってくれたら良いなと淡い期待があった。
だが置いて逝かれた。たった一人で決着をつけて因縁と死んでいった。
もう大切な人は作るまいと、人と距離を取り始めたのはこの頃だ。
友人を作れど深い場所を踏まない。恋人より一夜限りの相手を望んだ。
金を払われることもあった。交際を申し込まれると即座に断って連絡先を削除した。
……そう、ヴォルペだって本来はその夜だけの関係になるはずだったのだ。
だのにヴォルペは容易に孤独を嗅ぎ付けては持てる全てで、愛でて癒した。
例えば雨が噎せるほど降るような心細い日でも。
例えば瞳が焼け切れそうなほど光が重い日でも。
傍に在ってくれた。触れてくる指先はいつもいつも、優しいものだった。
普通の人より長生きらしく、頑丈なのだと依頼で同席する度に思っていた。
──だからヴォルペに置いて逝かれることは、一番の想定外だった。
一陣の風として、新月の夜に走り抜ける光として、逝ってしまった。
もう誰も、自分を置いて逝くような人は居ないと思っていた。
だが情勢が明確化するにつれて、怒りよりも納得する方が早かった。
邪魔が入ったのは確かに怒る所だが、それによって世界の悪役となったヴォルペは美しい。
正直、羨ましさすらある姿である。
なぜなら初めからヴォルペと自分は悪役志望である。
政とビジネスは善心のみで達成できず、イレギュラーズの仕事がそもそも、美しいばかりではない。
なら初めから悪役である方が楽な時もある。そういう意味でもヴォルペとは気が合った。
世界の悪役となり、そのまま死んでいったヴォルペ。
それならば餞は多少自分勝手なものでも構わないはずだ。
自分勝手な男が悪役として最上の死に方をしたのだから、こちらも合わせてやるのだ。
なにせ自分はヴォルペの共犯者だ、出来る限りの証拠隠滅と後始末は任されたい。
「彼女の事は任せて。守るよ」
ただ、ひとつだけ。自分なりの見送りと一方的な約束をさせて欲しい。
喪に服して約束が為に。その姿を真似ることを最期の我が儘にさせて欲しい。
そうやって今日まで、大切な人たちの死を越えて来たから。
便箋にただ一言、文句を書いて何も書いてない便箋と共に床に落とす。最期の嫌がらせだ。
脚を組み直して胸元から煙草を取り出し、一服する。
何時かの事情後、好奇心で駆られて一本、他ならぬヴォルペ本人に分けて貰ったものだった。
なんとなく吸う機会に恵まれなくて保管していた一本。
それは胃もたれするほど重く、麦酒よりも苦く、それでいていつまでも華々しい香りは。
──ヴォルペそのものだった。
便箋の束に煙草が落とされ、じりじりと燃えていく。
遠ざかる足音。独りでに開いて閉じる門扉。
白い秘密の家は、もう何処にもない。
「ラブレターだなんて可愛いね、京司くん」