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今日が終わるまで
登場人物一覧
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執事の朝は早い。
夜明けとともに目を覚まし、主人に失礼のないよう身なりを整える。
身なりがその品性を推し量るように身だしなみに手は抜けないものだ。
それは彼者誰にとっても例外ではない。
服装は皺ひとつない執事服。美しい銀の髪も後ろできっちりと結わえ、その手には真白の手袋を。
面を丁寧に磨き上げてから身に着けると、壁に掛かった時計に目をやった。
「そろそろお目覚めの時間でしょうか」
台所に移動して湯を沸かし朝食の用意を進める。本来シェフがいるものだろうが、彼者誰の手にかかれば料理さえお手の物だ。
準備を終えれば紅茶をトレイに載せて『本日の主人』たる彼の部屋の扉を静かにノックした。
「ああ。いいよ、入って」
少し遅れて返事が聴こえる。なんのことはない、”入れと言わなくてはならないと気づくのが遅れた”だけのことだ。
扉を開けた彼者誰はにっこりと微笑みを浮かべると、本日の主人――ランドウェラ=ロード=ロウスに恭しく礼をして見せた。
「おはようございます、ランドウェラ殿。お目覚めの紅茶はお飲みになりますか?」
「貰おうかな、ありがとう」
オッドアイの双眼を細めてへらりと笑みを浮かべたランドウェラは、差し出された紅茶のカップに口を付ける。カップにも繊細な意匠が凝らされ、質のいいものだと見て取れた。
「朝食のご用意ができていますが、もう起きられますか?」
「うん、起きるよ。……ねえ、彼者誰。僕、こんなにのんびりしていていいの?」
ランドウェラが困惑した声を漏らすのは無理もない。
というのも、曲りなりにもこれは”ローレットの依頼”であるのだから。
依頼内容はこうだ。
『屋敷で一日を過ごしてほしい。……できれば、主と執事として』
……なんで? 正直そう思っただろう。ランドウェラと彼者誰も思った。
元々は依頼主が留守中に館を無人にしておくのは不用心だと考えたからなのだが、どうせなら館の備品なども使用して欲しいと考えたのだ。
物は使われるべきものだ。ほっとかれておくなんて可哀そうだろう? ということらしい。
どちらが主人役でどちらが執事役になるかはすぐに決まった。なんといっても彼者誰にとっては”本職”。これ以上の適任もいないだろう。
かくして、不思議な主従の一日が幕を開けたのだった。
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さて、朝食を食べ終えたランドウェラは手持無沙汰に彼者誰を窺う。
主人という立ち位置に慣れないのだろう彼の様子に彼者誰は微笑んだ。
「デザートはお召し上がりになりますか?」
「デザートあるの? 食べる」
ランドウェラが甘いもの好きときいて用意していたのだろう。デザートプレートに舌鼓を打つ様子に、世間話のように彼者誰は言葉を紡ぐ。
「ランドウェラ殿のお口に合うと良いのですが」
「美味しいよ。いやぁ、主人って何すればいいんだろって思ってたけど、こんなに美味しいものが食べられるならいいなあ」
楽観的を現したような物言い。しかし事実ランドウェラは楽観主義であり、何より楽しいことを好むのだ。
「ふふ、光栄です。ランドウェラ様の思うようになさればいいと思いますよ」
思うようにか、とフォークを口元に運びながらランドウェラは頭をひねる。貴族といえばすぐに浮かぶのは幻想の三大勢力たるとある伯爵だが。コホンと咳ばらいを一つ。
「こちらのケーキは大変美味しいですね、……こう?」
「大変お可愛らし……いえ、良いと思います」
ふふっと笑みを零して肯定。藤の瞳は和むものを見るかのように細められていたが。
「案外何とかなるもんだな。一日だけだけど、よろしくね」
「ええ、お任せください。本日の俺はランドウェラ殿の執事ですから、何なりとお申し付けくださいね?」
彼者誰はにっこりと笑んで、そのままデザートを口に運ぶ主の隣に佇む。
やがてきっちりとデザートプレートを空にしたランドウェラが真剣な顔(少なくとも本人にとっては)で言った。
「やっぱり僕、のんびりしすぎじゃない?」
「そうでしょうか。今のままで依頼は十分達成できていると思います」
そもそも屋敷で一日過ごして下さいってどんな依頼だ。本当に。
とはいえ執事たるもの主人に快適に一日を過ごしてもらうべく、面白いことでもないだろうかと考えを巡らせる。
そういえば今日はとびきりの快晴だと、天気予報は謳っていただろうか?
いいことを思いついた、と言わんばかりに彼者誰は再び穏やかな微笑を浮かべた。
「それでは午後は外で過ごすのはいかがですか。お庭なら屋敷内ですし、依頼にも背かないでしょう」
「いやそれやっぱりのんびりしてるだけだよね!?」
主人とは果たしてこういったものだっただろうか。
とにもかくにも、彼者誰の料理は美味しい。おやつにもきっと絶品のものを用意してくれるだろう。子供さながらに期待に胸が膨らむのだった。
「ところで、彼者誰はいいの? 一日だけとはいえ初対面の僕に仕えたりして」
天気予報の通り抜けるような青空の昼下がり。
皿に取り分けられたデザートを口に運ぶ間にも、彼者誰の手によってテラステーブルにティーセットが並べられていく。
「愚問でございます。たとえ一時的であってもランドウェラ殿は俺の主人。全身全霊でお仕えいたしますよ」
それが執事というものでしょう? 微笑む彼者誰にランドウェラはそういうものかと頷いた。
「それにしても聞きしに違わぬ美しさですね。こちらのお庭は」
「うん、すごく綺麗だよね。このマフィンも美味しいよ」
「ランドウェラ殿は本当に甘いものがお好きでございますね。お気に召したようで嬉しいです」
それにしても、昨日依頼を受けたというのに完璧に執事として業務をこなすあたり彼者誰の本職ぶりがうかがえる。
屋敷の大きな書庫から借りてきた本を開きながら、ランドウェラは温かな日差しになごんだ。
甘党、そして読書家でもある彼にとってこの時間は至福と言えよう。
(明日からもお菓子作ってきてくれないかな……)
流石にそこまで求めるのは贅沢というアレだろうか?
かちゃりと彼者誰が食器を片付ける音と共に、ランドウェラがゆっくりページを捲る音が静かに響く。
穏やかな午後は時計の針をいつもよりゆっくりと進めているようだった。
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「ランドウェラ殿。一日主人として過ごされてみて如何でしたか?」
夕方もすぎたくらいの時間、変わらず本のページを捲るランドウェラに彼者誰はふいに尋ねた。
今日一日、主人の如何なる要望にも対応するよう万全に仕えたつもりであるが、ランドウェラはどのように感じていたのだろう。
そんな考えを気留めずに、ランドウェラはゆるく笑みを浮かべて。
「僕はね、楽しいことが好きなんだ。彼者誰はたくさんお喋りしてくれるでしょ。楽しかったよ」
「それは何よりでございます。俺もランドウェラ殿にお仕え出来て楽しかったですよ。とは言いましても、今日が終わるまではランドウェラ殿の執事ですがね?」
穏やかに笑んだ彼者誰の目の前に、ランドウェラは瓶に詰まったとっておきのこんぺいとうを揺らして見せる。一日尽くしてくれた彼者誰への彼なりの礼なのかもしれない。
「こんぺいとう、食べる?」
「頂きましょう、ご主人殿」
夜が訪れるまであと少し。日が傾けばこの不思議な主従関係も終わりを告げるだろう。
その時を想像してくすぐったい気持ちになりながら、ランドウェラはこんぺいとうを頬張るのだった。