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ハロー,ハミングバード
登場人物一覧
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よく晴れた空の下、ここから新たな世界へ向けて巣立つのだと信じていた。
花嫁衣装を着て、比翼の鳥となって。
だけど今彼女は一人故郷を後にする。
結い上げてヴェールを被るはずだった頭は男の子みたいに髪を切り、ドレスに変わって半ズボンとソックスを身に着けている。
さようならマーガレット。
さようなら馬鹿な女の子。
結婚を夢見た少女は現実を知り、貴族としての家名も、女の子であることも捨て、新しい世界に向けて旅に出る。
トランクに傷心を詰め込んで。
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マギー・クレスト(p3p008373)がマーガレット・リーフェンシュタールであった頃、彼女のゆく道は生まれ落ちた瞬間から定められていた。
愛し合いながら家の事情で恋人と一緒になることが出来なかった大祖父は、生まれた子同士を妻合わせようと恋人と約束。
しかし生まれてきた子は同性同士。その子もまた同性と来て、ようやく曾孫の代になってめでたく大祖父の悲願は達成されることになった。
同性愛や同性婚が認められていない訳じゃないけれど、血を受け継ぐことにこだわる保守的な貴族の間では良しとしないこともあったから。
大祖父自身がそれで別れさせられたように。
幸いにしてマーガレットの許嫁は貴公子として申し分のない青年であり、幼心にも素敵と感じる相手であった。
だからリーフェンシュタール子爵家の令嬢は、いつか彼と結ばれる日が来ることを疑うことはなかった。
「
「いいの、だってどうせ嫌われたって結婚はするんでしょ? 同じです。だったら結婚するまでくらいは好きにしないと損」
「だからって程度は御座いますよ? 殿方はおしとやかなレディーの方が好まれますから」
「ウィリアム様の前では大人しくするから大丈夫」
狩りに乗馬に木登りに。お菓子にダンスにお喋りに。
明るく朗らかな令嬢は乳母に窘められてばかり。
淑女教育を受けてはいても、その場で繕えさえすればいいと思っていた。
「私のハミングバードは相変わらずお転婆だな。また何か乳母を困らせているのかい?」
「ウィリアム様! いらっしゃいませ。お越し頂いて嬉しいです」
カーテシーでスカートを摘まみあげれば、庭を走るために履いたブーツが覗く。
許嫁の彼はマーガレットの頭に手を伸ばし、彼女の髪に付いた葉を払い除けた。
「元気なのはいいけれど、ちゃんと勉強もするんだよ?」
「もちろん勉強もしています。だってそれが貴族の義務ですから。でも息抜きだって必要でしょう? こんなに天気がいいのですから、散歩くらいしたくなります」
「散歩ね……その割にはスカートに動物の毛が付いているよ。犬とでも戯れてきたのかい?」
足下を見下ろし笑う黒髪の彼は、いつものように碧い目を優しく細める。
ウィリアム・トレフューシス。
12歳年上の彼は男爵家の長男で、トレフューシス家は《幻想》の伯爵家よりの分家で興った家。
大祖父がトレフューシス家の令息と結婚出来なかったのは本家や親族から反対された為と聞く。
彼は歳の離れたマーガレットのことを妹のように可愛がり、時々ハミングバードと渾名した。
美しいのに忙しなく羽ばたいて蜂のような羽音がする鳥が、マーガレットに似ているのだと。
(ウィリアム様は
そう思っていたのが間違いだったと気付かされたのは、婚約破棄を申し渡された後だった。
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「何故ですか? 大祖父様の御遺言は絶対、お父様もお祖父様もそう申していたではありませんか?」
マーガレットが父に問い糾せば、本家である伯爵家から彼に一人娘の婿養子の話があったのだという。
さらに大祖父達が交わした約束を自分の子や孫の代にまで継続するのも辞めにしたいと言ってきたと。
大祖父の時もそうであったように、分家であるトレフューシス家は本家の圧力には勝てない。
だがそれは親しく付き合ってきた家同士の絶縁にも等しい申し出で、父の憤慨も当然だった
「嘘ですよね? だって一週間前にはそんなこと一言も……。
マーガレットは愛馬を駆り許嫁の元へと駆ける。
押し付けられて仕方なく伯爵家へ婿に行くのだと。
心ではマーガレットとの結婚を望んでいるのだと。
やはりマーガレットを選びたいと言って欲しくて。
だけど先触れもなく突然訪れたマーガレットに許嫁であった青年は冷たく言い放つ。
「マーガレット、私が婚約の解消を望んだのは本家からの申し入れがあったからだけではないんだ。私と共に貴族社会で生きていくには、君は幼くて自覚がなさ過ぎた」
「ウィリアム様、令嬢らしく淑やかにと望まれるのなら今からすぐに改めます。それにこう見えても
「君が社交界で花開くにはまだ何年も時が必要だろう。それに待っても私の求める花になるとは限らない。私は君より十二歳も年上だ。私に必要なのはこれから咲く蕾ではなく今咲き誇る花なんだ」
ウィリアムが言葉を選んで突き放す。
突彼の紳士的な態度が、今日はどこかよそよそしく見えた。
「以前から思っていたことだ。私が望むのは慎ましく芯の強い大人の女性……つまり君じゃない」
お転婆だと笑いながらふさわしい相手か吟味していたこと。
大祖父同士の約束を反故にするだけの決意が彼にあること。
マーガレットをハミングバードと呼んで親しんでくれた人はもういない。
元となった許嫁から涙を隠して逃げるように立ち去るしかなかった。
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マーガレットは乳母の名を借り、マギー・クレストと名を改めて旅に出た。
療養とは逃げ出すための名目、本当のところは
婚約を破棄された不名誉は親も同じ。
だったら自分が家にいない方がいい。
さようならマーガレット。
さようなら馬鹿な女の子。
マギーは過去の自分に別れを告げ、馬車に乗り込む。
丘の上では帽子を目深に被った男がそれを見つめている。
婚約を貫けばリーフェンシュタール家に害が及ぶ。
それこそマーガレットの身に危険が迫ることも。
伯爵家の現当主は愛娘のためなら手段を選ばない人だ。
さようならマーガレット。
さようならハミングバード。
男が旅立つ彼女の為に祈ると、祈りは光となって馬車に届く。
「この光、この力……これは……ギフト?」
飛んできた光が己の中に入るのを感じると、胸の前で拳を握る。
沸き上がる力は紛れもなくこの世界の住人に与えられる
その力を使えばひととき宙に留まることが出来るだろう。
また力を使えば星のきらめきを灯りとなって纏うだろう。
蜂のように羽ばたいて宙に留まるハミングバードのように。
星にきらめきを与えたという神話のハミングバードのように。
こんにちはマギー。
こんにちはハミングバード。
この後空中庭園から召喚を受けることになる彼女だが、今はまだ先の話。
少女は馬車の窓から身を乗り出すと、これから向かう先へ向けて手を振る。
丘の上にはもう誰の姿もないけれど、空ゆく鳥が彼女の旅立ちを言祝いでいた。