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罅
登場人物一覧
今夜あたりどうだろう、と猫は歩く。大通りからひとつふたつ逸れた裏の街。怪しげな店も多く、探せば賭場もあるだろう。お上品とは言い難いそこにはロクな看板もありはしないが、目当ての場所があるならば迷わず進むのは造作もない。それくらいには慣れていた。
古い煉瓦に彫られた五枚の花弁をなぞる。その花がフランネル草だと教えてくれたのは、常連だと豪語していた大柄な男だ。風の噂に飲み過ぎてぽっくり逝ったと聞く。そろそろ立ち寄ってもいいか、と思った切っ掛けだった。
その印のある壁から四つ目の角を曲がれば簡素な木の扉がお出迎えしてくれる。嵌め込まれた小さな鉄のプレートにも同じ模様が刻んであった。錆びて赤茶けたその花は、別名を酔仙翁といった。
税金逃れやら訳有り店主やら、隠し酒場が作られる理由は様々だ。そして自然と後ろ暗い者達が集まるその場所には、騒がしくとも静かな緊張感が下地にある。相席する隣人が想像もつかないような極悪人であったり、今呷っているその酒が悪を成した対価で支払われていたり、たとえ同じ狢でも隙を見せれば食われてしまうのだから当然だ。
故に、彼のそれも狩りの一種である。目に余る程なら別だが、少し摘んでも店主が口を出すことはない。
「となり、いーい?」
軽薄な声音。返事を聞く前に腰を下ろす身勝手さ。ほんのりと香る体臭に混じった酒精。純白の長い髪が溢れる音。グラスに揺れる琥珀色と同じ左目と、リキュールのように澄んだ右の空色が笑えば、整った顔立ちに落ちる睫毛の影。
薄汚れた酒場に不似合いな装いから覗く婀娜っぽさのひとつでも目に留まったなら、彼の思う壺だ。
「ん。ヒマそうにしてたから僕が構ってあげよっかなぁって……乾杯しよ?」
すぐに空いたグラスへ半自動的に続きが注がれ始めるのも時間の問題だった。
裏の酒場を訪れる時の手持ちは、安い酒で軽く酔うくらい飲めるだけ。それが尽きるまでに身繕えなければ、少し目を瞑って程よい眠気と帰る。
無防備に見えるのか、ここで釣れたりもする。そういう奴は大体弱ったものにだけ手を出す小心者で、御しやすいから
一度針にかかったなら、気持ちよく酔ってもらうためにお酌をして、お喋りをして、右耳で音が跳ねる様を嗤う。
どくどく、ごうごう。相手を品定めする時に聞く音は喧しければ喧しいほど楽しい。けれど時々、厄介なものも引っかかるから慎重に。縛りつけたり、閉じ込めたり、痛い思いをするのは趣味じゃない。
頃合いを見て、少しお高い酒を強請って具合を探る。最近小金が転がり込んだ。気に入った相手に奢るくらい訳もない。はいはい、知ってる、知ってた。駄々漏れの心の先を見据えて、構って欲しいから酔わせて、と本音を滲ませた甘い声を出してあげれば、目の奥の炎が焚き付けられるところが本当に
「でもさぁ、ツケじゃあ心置きなく飲めないからヤダなぁ?」
このあと何があっても店には禍根を残さないように、全部全部、お腹の中に収めてしまおう。払ったお金は戻ってこない。飲んでしまったお酒と一緒だ。ボトルキープもさせたりしない。それが店の主人と上手く付き合う僕なりの流儀だ。——だってほら、出禁になったら安全な狩場を探す手間が増えちゃうしねぇ?
揺れて、揺らして、揺らされて。寂しいとか、恋しいとか、悲しいとか、そんなものが全部下らなくなって、上へ上へと押し寄せる甘くて苦しい幸福に、頭がぐちゃぐちゃになる感覚——アルコールのせいじゃない。それだけじゃもう足りない。だから手を伸ばして、爪を立てて、しがみついて、覗き込んでくる瞳に縋って、「もっとちょうだい」と潰れた声を上げるんだ。僕を酔わせる他の誰かの匂い、温度、重さ、声、指先、味——馬鹿になった舌ですら、惨めったらしく残滓を拾い上げる行為の中に、僅かでも、一時でも、刹那でも、情があるなら。息を継げる。まだ死なずにいられる。そうして——捨てられる前に捨てよう、彼がそうしたように。やっぱり僕には必要ないって。だからまずは揺らして、壊して、満たして、僕の名前を呼んで——
彼がそこそこ柔らかいベッドの上に浮上したのは夜明け前のこと。音を殺して身支度を整える動きは気怠げで、しかし手慣れた様子で無駄は無い。僅かに残った行為の跡は白い外套の下に消えていく。
「
乱れた寝床に沈み込んだだらしない影を見下ろして最低限の礼を尽くせば、興味が失せたとばかりにあっさり窓の外へと身を乗り出した。
自慢の跳躍力も鈍い痛みと眠気に負けて精彩を欠く屋根伝いの帰路。見るものがいればふらふらと危なっかしい姿だが、実際はこちらの方が安全なのだ。
ひとまず表の広場の植木で寝直そうか、と欠伸を噛み殺し、もう顔も覚えていない誰かの残り香を振り切るように煉瓦を蹴る。薄暗い町の底まで、まだ日の光は届かない。