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天の香りを想ふ
登場人物一覧
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──それは澱むような気持ちだった。
豊穣郷の名の通り、豊かな恵みを得られ、
陸地の名前は現地民の話だと
そんな国では今恐ろしい『呪詛』が蔓延していた。
望んだ相手に忌の妖を送り込み殺すことが出来るという呪いである。
これが大流行した為に都は疑心暗鬼に沈み、特に霞帝派閥と天香派閥に割れていた行政機関『七扇』は混乱の極みにあった。
そんなさなかにおきた大事件。それは高天御所にて強大な呪詛が行われることが完治されたというものだ。
高天御所といえば宮中内裏や大内裏があり巫女姫がおわす場所。巫女姫はこの国を実質的に支配している魔種であったのだ。
『琥珀の約束』鹿ノ子(p3p007279)はそんな豊穣郷での戦いを一先ず終えた。
けれど、自分の心はこんなにもポッカリと穴が空いて居て、どうしようもなく酷く酷く苦しい。
息が上手く出来ない、声が上手く出せない。それはどうしてもどうしても……譲れなかった思いのはずだったのに。
この苦しみの理由を、鹿ノ子はちゃんと自覚していた。
(……誰よりも、誰よりも……この思いは強いって思ってたッス)
絶対、絶対負けないと思っていた。だってそうだ、思えばずっと前から……鹿ノ子は唇を噛む。どうしても……どうしようもなく
どうしようもなく、
(僕には……何が足りなかったんスか?)
虚空へ投げかける問いは直ぐに消えうせてしまう程に虚しい。ああ、自分の心にこんな澱んだ気持ちがあったなんて……。
鹿ノ子は涙を流せない。凄く泣きたい気分なのに……泣き喚いてこの悔しさを何処かにぶつけてしまいたいのに……この目からは雫一つ落ちやしない。この何とも言え難い笑顔だけが張り付いたままだ。
そこで仲間が
(言えない……こんなの、言えない……っ)
嗚呼。嗚呼。そうだ、誰にも言えやしない。
彼を救えなかった悲しみや悔しさより、行方不明となった仲間たちへの心配や不安の気持ちより、早く次の手立てを講じねばという焦燥感より、何よりも、何よりも……この胸を支配するのが──
おそらく、
あの手は自分が掴みたかった。自分が掴んで、抱きしめて……彼を、彼を強く守りたかったのに。
どうしてあの手を掴んでいたのは自分じゃないんだろう。何が足りなかったんだろう。
力か? 覚悟か? 運か?
自分に足りないものはなんだろう。
心から思える人と出会えた。魔種と化して行方不明になった主人以外……心から大切に思える人に出会えたと思っていたのだ。
それなのに……彼女には一体何が欠けていると言い放つのか。
悔しくて悲しくて辛くて……笑顔を貼り付けたままの鹿ノ子は先程から着ている服の裾を強く握ったまま……解く事が出来ないでいる。
彼女の心を支配するのは強力な黒。
思いの強さでは絶対に負けないと信じていたからこその落胆。『どうして?』と言う言葉がずっとずっとこの胸の心を強く支配して離さない。
「鹿ノ子ちゃん!」
「!!」
急に呼ばれて我に返る。ふと見上げてみれば心配そうに覗き込む仲間達がいた。
「大丈夫だよ! 遮那さんは絶対助けられます! それに彼女だって!」
「そうですよ、だからそんなに落ち込まないで!」
「……な、何言ってるんスか! もちろんッスよ! 絶対助け出してみせるッス!」
仲間達の言葉に
そうじゃない、そうじゃないんだ。でもこの気持ちを鹿ノ子は言えるはずがないと蓋をした。
何とか捕虜を逃れた鹿ノ子は、人の気配のないこの場所で一人佇む。
近場にある小さな池に自分の顔が映っていて……それは悲しげな表情を浮かべているつもりなのに、憎たらしいぐらいに悲しく見えない表情だった。
「こんな
鹿ノ子はヤケを起こしたくなるが、
自分は
絶対に……
鹿ノ子はそう池の水面を落ちていた木の枝でパシャリと音を立てて歪めて心が落ち着くように胸に手を当てる。
けれどまだ少女の鹿ノ子の心はそこまで完璧ではなくて。
(でも救えなかった。また救えなかった。……また?)
誰かを救えなかったことが、自分にはあった? 思い出せない。誰を救えなかったのだっけ。
鹿の子が脳内で記憶を辿っても誰の事なのか全くわからない。それは主人の事だったか、それとも幼少の時の記憶にいる人物か。今の彼女はその記憶を見つけ出す事が出来なくて。
(でもあのときも、こんなふうに途方に暮れていた気がする)
……ずっと、心はどこか遠くへいって、瞳は更に遠くを見つめて……何も考える事が出来なくて。
けれど立ち止まってはいられないのだ。
彼を助けに行かなければいけない。だって約束したのだ。彼の手を掴んだまま連れ去られてしまった彼女のことだって、助けに行かなければ。
行かなければならないんだ。
わかっているんだ!!
わかっているんだ!!
わかっているんだ──!!!!
(泣けない事が……こんなにも苦しい事だったなんて……僕、知らないッス……)
心の中では年相応の少女のように泣き喚いているのに。鹿ノ子は無情な程に枯れ落ちた目を擦ってみる。何度も何度も何度も。
それでも、涙が滲む事すらない。
主人を失った時も、記憶の中にいる誰かも、そして……彼に対しても……
涙が流せない自分が酷く苦しくてどうしようもない。
でも、涙が流せなくて酷く苦しいのは今回が初めてだった。
「遮那、さん……遮那さん……」
涙が流せない代わりに名前を呼ぶ。愛おしげに、苦しげに、その名を呼ぶ。この胸に抱きたい程、大切な……大好きな大好きな……愛しい人なんだ。
もう、誰にだって譲る事は出来ないんだと、鹿ノ子は空を見上げる。
「…………行かなきゃ、ッス……」
今は彼が望む人になれるなれないではない。今は苦しむ彼を救い出す……それは
彼女と何ら変わらないはずなんだ!!
「今度は……今度こそは……僕が救うッス……」
身勝手な行動はしない、仲間が不利になる事もしない……けれど──!!
「遮那さんを救うのは……僕の役目ッス……誰にも……誰にだって……仲間にだって譲りたくないッス!!!!」
乙女はどんな時だって強くなれるはずだ。それが純粋で素直で……こんなにも歪んでしまう程強い気持ちを抱くなら……きっときっと報われるはずだから。
ああ、どうか……この少女の運命に誰かが微笑んでくれたらいいのに。
特異運命座標なら誰だって運命は変えられるのだと……いつだって特異運命座標自身が教えてきてくれたのだから。
今度はその運命の力を……どうかこの僕にも使わせてほしいのだ。
鹿ノ子は強く強く……酷く軌跡を思う。懇願する。
ボロボロの彼女の心は……次の戦いの準備を終えていた。
──絶対に……運命を勝ち取る為に。