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まるで花のように
──まるで花のように。
「ルーチェ様」
ほのかなリンデンの花の香りが鼻をくすぐる。
名前を呼ばれて思わずハッと息を吸い込めば、その香りはますます強くなった。くらりと眩暈を覚えながら、美しい精霊種を見上げる。
リンデンの花の精霊種、リディエンリンデ。ルーチェと同じイレギュラーズだ。
出会って以来、ルーチェとは姉妹のような関係にある。
(でも)
いつからだろう。
(リンデンの花の香りに、こんなにも反応するようになったのは)
身体の火照りを覚えるようになったのは。
(声を聴くだけで心臓が飛びはねるようになったのは)
もっと近くで聞いていたいと願うようになったのは。
(わたしはリリさんの事……)
ルーチェは心を宥めるように拳を握り、そっとリディエンリンデを窺った。
リディエンリンデはルーチェの様子をまるで疑問に思わないようで、いつもと変わらない優しい笑みを妹のように可愛がっている少女に向けている。
「ルーチェ様?」
従順に応答を待っているリディエンリンデの様子に、ルーチェは熱が冷めていくのを感じた。
こちらはこんなにも気持ちを抑えようと必死なのに、リディエンリンデの涼し気なこと。
「ルーチェ様?」
「……聞こえてるよ、リリさん。……この間食べられなかったクレープ屋さんが、今日は営業しているそうなの。一緒に行かない?」
「まあ、本当ですか? ええ、行きたいです!」
食べる事が大好きな彼女の気を惹くために、なんとも浅ましい真似をしていると自分でも思う。
ルーチェ自身、この想いが何なのかうっすらと気づいては居る。だが、今の居心地のいい関係を壊すのは怖かった。
いくら仲が良くたって、踏み越えられない一線はある。勇気を出して踏み越えたところで、その先が底なしの崖だったら、今度こそルーチェの命はないかもしれない。
望まない結婚を強いられて自殺を試みたルーチェにとって、それは大袈裟ではないかもしれなかった。
(だから、このまま)
姉妹のような関係のままで良いと。
そう思っていた。
「……どうして、泣いていらっしゃるのですか、ルーチェ様」
リディエンリンデのたおやかな手は、赤黒い染みを作る包帯に包まれていた。
本当はその手を握りたいのに、触れた瞬間に壊れてしまうのではないかと恐ろしくて、ルーチェは自分の手を自分で握りしめるほかなかった。
その頬を、涙が後から後から流れていく。
しとどに濡れた頬を、ルーチェが触れるのを躊躇った、たおやかな手が触れる。
「ルーチェ様、泣かないで」
リディエンリンデは、決して清潔とは言えない布の上に横たわっている。その全身もまた赤黒く染まっていた。あたりには、彼女と同じように倒れこむ人々がいて、トリアージの順に処置を施されている。
激しい戦いの後だった。
幸いと言うべきか、リディエンリンデは見た目ほど重症ではない。意識のハッキリとした目が、泣き続けるルーチェをしっかりと見上げていた。
ルーチェは、リディエンリンデをまっすぐ見つめ返すことが出来なかった。まるで海に突き落とされたみたいに、視界が涙で溺れている。呼吸もうまくできない。身体も痙攣したように言う事を聞いてくれない。
リディエンリンデの手に辿り着くまで、ずいぶんと時間をかけたように思う。
あれほど壊してしまうのではないかと恐れた皮膚に触れた瞬間、ルーチェはその手に縋りついていた。
「――うしなうかとおもった……」
「え?」
「リリさんを、失うかと思った……!」
──まるで花のように。
リディエンリンデの身体から、あかいあかい花が咲いた。
ルーチェはそれを見ていた。
喪失の恐怖におびえ、立ち尽くしていることしかできなかった。
(何も伝えられないまま、リリさんが居なくなってしまう)
もう二度と会えなくなってしまう。
そんなのは嫌!
姉に守られるばかりの妹のままで良いなんて、甘かったのだ。
「リリさんが、好き」
止まる事のない涙と共に、ルーチェは偽りのない心を吐き出した。
「わたし、リリさんが好き」
「ルーチェ様……?」
「妹としてじゃなくて……好き……好きなの……」
伝わるだろうか。
リディエンリンデの顔は、未だに涙の幕で見えない。霞の向こうで彼女がどんな顔をしているのか少し怖かった。
けれど、不思議と後悔はなかった。彼女を失うかもしれないと思ったあの恐怖に比べたら、嫌悪されるぐらいどうという事はない。
生きていてくれるなら、ルーチェの想いを知っていてくれるなら、もうそれで良かった。影からでも彼女を守ることは出来る。もう二度と、彼女をこんなめには合わせない。
「……ルーチェさま」
──まるで花のように。
唇に触れるものがあった。
ハッとすると、霞かかった視界でもハッキリと見て取れるほど近くに、リディエンリンデの顔があった。
嘘のように一瞬で涙が止まる。
「い、いま、何を……!?」
「キスを、しました」
「な、なんで!?」
「唇へのキスは、好きな人としか出来ないでしょう?」
リディエンリンデは、頬を染めて微笑む。
「出来ちゃいました」
ルーチェは呆然としたまま唇に手を当てる。
此処に、確かに、感触があった。目の前の人の反応を見るに、彼女の唇が、重なったのだろう。
まるで現実味を感じられないでいるルーチェに、リディエンリンデはもう一度キスをした。
「……私も好きです、ルーチェ様」
遠くで鐘が鳴っている。
(これは、ファルネージアのわたしが死んだ、鎮魂の鐘であり、祝福の鐘)
自分の命を投げ出すほど欲したものを手に入れた瞬間だった。
想いを伝えあってから暫くして、二人は小さな教会で指輪を交換し合った。
お互いの左手の薬指。嵌められたのは、菩提樹の花の意匠を施した白銀の指輪。
愛するひとへ向けた二人の顔は、至福を詰め込んだ笑顔だった。
──まるで花のように。