PandoraPartyProject

サンプルSS詳細

モブ視点から見る悪役:凄惨、暴力、理不尽、狂気

双極そうきょくの道化はわらう(6000文字程度)

「煙草、ね。嗜好品としては傍迷惑な代物だよ。自分だけならまだしも、他人の健康にまで害を及ぼすってんだから性質が悪い。とはいえ必要以上に目くじらを立てるのもどうかと思うんだ。いいじゃん、迷惑を掛けないように吸う分にはさ。俺もさ、喫煙者の立場から言わせてもらうとねえ、いや最近の世間の目ときたら容赦がないよ。ルールを守って楽しく吸ってる善良な喫煙者に対してだって氷のように視線が冷たいからね。そういうさ、他人を思いやれない心が社会を腐らせていくんだと思ってるわけなんだよね、常々」
 よく通る彼の声以外は痛いほどの静寂が辺りを支配していた。東京のど真ん中、休日の繁華街。先までは大勢の人が行き交い雑然とした賑わいを見せていた只中、今はもう彼以外に声を上げる者はない。私は目の前のこの狂人が果たして善良な救世主であったかを自らに問い、そして否定した。奴は善良などでも、まして救世主などでは決してない。こいつは悪魔だ。

 長く遠い地へ出張に出ていた夫を出迎えに、娘と二人街へ出た。娘は久しぶりに夫に会えると朝から浮かれていた。それは私も同様で、随分と長い間埃を被らせていたメイク用品を総動員したほどだったが、一方で娘には化粧の時間が長いと呆れられてしまった。夫が帰ってくるのは十三時台の特急だったので、早めに家を出て昼食は到着駅のある街中で摂った。久しぶりの外食に娘は終始はしゃいでいて、宥めるのに苦労はしたがそんな様子を見ているのは悪い気はしない。レストランを出て、そろそろ夫を迎えに行こうかと駅に向かって二人で歩き出した時だった。
 あつ、と顔を顰める娘に気付き、どうしたの、と声を掛けた。たばこ、と小さな声で呟いた彼女は、私と繋いだままの手と反対の手で前方を指差す。見れば前を行く男が火の点いた煙草を右手に持ったまま歩いているのだ。時折口元へ持っていき、その度に煙が吹きつけ、手を戻す動作で赤く熱された灰が舞う。娘の目線と男の煙草を持った手の位置がほぼ同じ高さであったため、娘の頭や肩には白い灰が散っていた。街中での歩き煙草、非常識だが面と向かって咎める人間がいないのも確かだ。私も迷惑だと思ったことはあれど、さして気にしたことはなかった。だが今は違う。歩き煙草というものが、幼い愛娘に害を与えるというのであれば黙って見過ごすことなど出来ない。胸が頭がかっと熱くなるような感覚を覚えた私は、溢れる怒りの感情のまま前を歩く男に声を掛けようと腕を伸ばした。
「がいちゅーくじょー」
 間の抜けた、それでいて妙に楽しげな声が、その時雑踏の中からやけに鮮明に聞こえた。それはとても唐突で、私は自分の目の前で一体何が起こったのか理解することが出来なかった。男の肩を掴もうと伸ばした手は、どういうわけだか一瞬でぬるりと湿っていた。否、手と言わず、飛沫は顔に降りかかり、胸や足元にもびしゃりと勢い良く飛び散っていた。ぬめりもったりと糸を引くそれが鮮血であることに気が付くと、辺りからは空気を劈くような悲鳴が起こり始めた。私以上に全身をびっしょりと赤く濡らした娘は、一心に前を見つめている。私や周りの人間以上に何が起きているのか理解出来ていないのだろう。恐怖よりも好奇心が勝っている様子だった。
 それ、たばこすってたおとこのひと? 娘が何かに問いかける。何か――前方の血の海の只中に座り込む人影は、そのままの姿勢でぐるりと首を回して娘を見た。
「そーだよ!」
 にっかりと白い歯を見せて笑うその血塗れの顔は、一片のよこしまも持ち合わせていないように窺えた。
「人に迷惑かける悪い奴だったから、おにーさんがやっつけたの!」
 そう言ってずいとピースサインを見せてくるその青年は、娘には正義の味方か何かにでも見えたのだろうか。すごおい、ありがとう、興奮したようにそう言って釣られたように笑顔を見せる娘に怖気が走る。違う、彼女の抱くその感情は間違っている。テレビの中で悪い奴をやっつける正義の味方は、決して血溜まりの中で笑顔を見せたりしない。街中で迷惑をかける他人を、何の前触れもなく人の形も保てないくらいに圧砕して良いはずがない。その男は正義の味方などではない。その男の行為に感謝を抱いてはいけない。普通じゃない、近付いてはいけない、やめて、離れて。
「俺嫌いなんだよね。公共のルール守れねー身勝手な奴」
 その男を中心に、往来の人々がわっと離れていく。一目散に駆け出す人、震えながらじりじりと後退る人、反応は様々だったがまさに阿鼻叫喚といった様相だった。その騒ぎの中心でにこやかに会話を続けるその様がどれほど異様か、幼い娘にはわからないのだろう。
「あーあー。ギャーギャーうるせーなあ」
 ほんの軽い日常会話のような口調で男が呆れたように言う。面倒臭そうに腰を上げると、男の足元でぐちゃりと嫌な音がした。娘は音の源に目をやり、しゃがみこんで何かを手に取りまじまじと眺めていた。私はその光景を見ていられずに目を逸らす。
「そんなにワーワー騒いだらあ」
 ばちゃん、ぶおん、と大きな音を立てて、男がその場から大きく跳躍したのだとわかった。音の大きさもさることながら、その反動で起きた風と飛沫で、その男がますます規格外の化け物であることに気付かされる。既に二十メートルは遠ざかっていた喧騒の真っ只中に、男は一足飛びで闖入し着地した。その足で他人の身体を蹴り潰して。
「他の人のー、迷惑にー、なーるーじゃーん! ……っふ、ふはっ、あっは」
 唐突に繰り広げられる非日常に、理解も感情もついていけなかった。男は下敷きになったものを踏みつけて立ち上がると、視界に入る人間を引き倒し、殴りつけ、砕いて踏み潰し、投げつけ、蹴り上げ、齧りつき、暴力の限りを尽くした。男の動作の度に一際大きな悲鳴と、およそ人体に働く暴力とは思えないような鈍重で惨たらしい音が響く。遠目に散る赤の中には、自らの人生の中で決して見ることのなかったであろう他人の臓器や肉片がありえない勢いでばらまかれているのがわかってしまった。
「はははははははは!! あっははははは、んっふ、ふふ、うっふふ、ふひ、ふは、は、ははははははははは!!」
 楽しくて仕方がないという、悪意の欠片もないような笑い声だった。していることは悪虐極まるのに、まるで砂場で遊ぶ子供のような純粋さが見えるようだった。それはあの男の笑声に対する私の主観であって、私自身はあの男が何にそれほどの楽しみを見出しているのかなどわかりようもない。わかりたくもない。
 遠くの悲鳴と笑い声を聞いているうちに、浴びせられた他人の生き血が冷え始めて震えが走る。先に全身に浴びたこの赤は、ほんの少し前まで生きて動いていた人間から流れ出た血なのだ。そしてそれはあの男の凄まじい着地の圧に押し潰された結果、今私の足元に無残な姿となって転がっている。娘がそれとわからずに弄んでいた目玉は、彼女に飽きられたのか打ち捨てられていた。摂ったばかりの昼食が逆流してくる。鼻をつくドレッシングの匂いと、喉に引っ掛かる葉野菜のちくちくとした痛みが大層不快だった。
 群衆が地に伏し、アスファルトの上に人の層が組み上げられた頃、もう辺りには私と娘とあの男以外、息のあるものはいなくなっていた。未だ笑いを堪えきれないといった風にくすくすと笑いながらこちらへ近付いてくる男に、私は恐怖心すらも凍てついていた。
「あーっ、たのしかった!」
 遊び疲れたといったようにぐっと伸びをした真っ赤な男に、娘はすっくと立ち上がって近寄っていく。ねえおにいちゃん、あのひとたちもわるものだったの? わるものをやっつけるのって、たのしいの? 自分を歩き煙草の悪人から守ってくれたと信じている娘は、不思議そうにそう尋ねた。
「……は?」
 瞬間、男の顔が凍りついた。楽しげに弛んでいた表情が、氷がひび割れるようにびしりと固まる。そうして次の瞬間、私は呆気なく最愛の娘を失った。もはや音すら聞こえなかった。振り被った腕が振り抜かれる風音も、子供の軽く小さい頭が吹き飛ばされる音も、その瞬間は耳鳴りのようにがんがんと自分の血の巡りだけが身体中に響いていた。二本の足で立つ小さな身体が、びたびたと血を零しながらふらりと揺れて倒れる。ほとんど反射のようにその身体を抱きとめ、そうして私はその断面を見て嘔吐した。私と愛する夫の血を分けた世界一愛らしい顔を惨たらしくもがれたそれは、既に命ある人ではなくなっていた。
 男が何か言っている。生きるものの気配のない栄えた街の只中で、大きく響く声を張り上げて朗々と何かを言っている。引き千切られた娘の頭は、遥か遠くのビルの窓に突っ込んでいったきり、薄く埃のように見える煙を立てたまま戻って来ない。腕の中の小さな身体は間違いなく抱き慣れた娘のもののはずなのに、もはや決定的に違えた何かに変わり果ててしまった。
 歩き煙草の男に、私は怒りを抱いた。胸が、頭がかっと熱くなって、男の迷惑行為を説き伏せようと行動を起こした。それは愛する娘が被害を被ったからだ。娘を害するものから守るべく働いた正義感だった。だが今はどうだ。私は娘の頭をもいだこの男に怒りが湧かない。害を及ぼすどころかその尊い命を奪った張本人であるこの男に、憎しみも抱けない。娘を失った実感がないわけでもない。何せもうずっと、失った命の重さに嘔吐してから私は視界を滲ませ続けている。涙が止まらない。この子はもう私に向かって笑いかけることはないのだと、吹き飛ばされた断面を見て痛いほど実感出来てしまう。私は屈してしまったのだ、この男の圧倒的な暴力の前に、娘の死を突きつけられても尚。涙は出るのに声の一つも上げられない。男を罵倒する言葉も出て来ない。自分の命が惜しいからだ。この男は何の前触れもなく一瞬で人の命を奪う。その手に自分の命が握り潰されるのが何よりも恐ろしかったからだ。娘の死よりも、娘の仇よりも。
「……いや、違うじゃん、そうだよ、あいつらもさ、悪いよね? だってさ、公共の場でだよ、あんなにギャーギャー騒いだら迷惑じゃん。うるせーし。俺超耳痛かった。だから、うん、あいつらも悪い奴だった。そう、わるいやつ。わるいやつ、だけど、うん……ごめん、そうだよな、おれ、なんか、じぶんがわるいことしちゃったんじゃないかって、おまえはわるいやつだっていわれるんじゃないかってこわくなって、だから、きみは、なにもわるいことなんかしてなかったのに、ごめん、おれが、おれ、おれのせいで、こんな、あ、ああ、くび、くびが、なんで、おれこんなひどいこと、あ、あああ、ごめ、ごめんなさ、あ、あああ、うああああああああああああああああああ」
 この男の何もかもが理解出来なかった。淀みなくぺらぺらと喋っていたはずの男が、娘の亡骸を見ながら段々と覚束ない口調になっていって、遂には子供のようにわんわんと泣き出してしまったのだ。頭を抱えて悶え苦しむように、かっと開いた瞳からは本当にぼろぼろと涙を零している。
「あああああああああ、おれ、あのひとたちも、おれがころしたからこわくなっただけで、さわいだのもおれのせいで、なのにおれ、おれが、なにもわるくないひとたち、おれが、おれがころした、おれ、おれ、ごめん、ごめんなさい、ちがう、こんなひどい、いたいことされて、ごめんなさい、いたかったよな、なにもわるくないのに、おれにいっぽうてきにころされて、いたくてくるしくて、ああああああああ、おれにつぶされて、なぐられて、いたかったよな、くるしかったよな、こんなひどいことして、おれ、なんで、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 懺悔というには余りにも拙く、謝罪にしても雑に過ぎる言い訳。外見に不似合いなほど幼い喋り口でごめんなさいと泣き崩れるその姿は悲哀を誘うこともなく、ただただ不気味だった。何より始めからこの男は私に対して喋っていない。それが一等恐ろしかった。私は生きているとみなされていないのか、この男の定義する人の枠に入ってすらいないのか、とにかく終始私は彼の視界に映っていないもののようで、自分の存在が蔑ろにされる恐怖に震えていた。私の喜怒哀楽も、生死すら、この男には何の影響も及ぼせない。娘の死はこの男を悲しませたが、私はここで死んだところで虚ろなばかりだ。――それもそうか、何せ私は愛した娘の死に憤りすら抱けず、ただただ自分が可愛いだけの卑しい人間なのだから。自分の生が、自分の死が、何の意味も持たないことがこんなに虚しいことだなんて思いもしなかった。
「ああ、そうか」
 おいおいと泣いていた男が、突如けろりと何かを思いついたように明るい声を出した。今の今まで泣いていたとは思えないほどの変わり身に耳を疑う。
「見えてるからだめなんだ」
 端から聞いていては要領を得ない台詞だったが、名案を思いついたとばかりの男は、ははっと笑って跳躍した。ごおん、と硬いものが砕けるような音が響き、次の瞬間日に照らされていた頭上が突然陰った。背筋がぞっと凍るような悪寒を感じて上を見上げれば、垂直に佇んでいるはずの見慣れた高層ビル群が文字通り降ってくるのが見えた。
「こうすれば見えなくなるから、悲しくならなくて済むなあ!」
 最後に聞いたその男の声は心底嬉しそうに弾んでいて、逆光で見えないはずの遠くのその表情は、あの時娘に向けた屈託のない悪びれない笑顔を浮かべているのだろうと窺え、その瞬間に初めて私は男を酷く憎悪し、愛したひとたちへの心咎めに嗚咽した。

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