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くすむ冬
朝。目が覚めて、小さく息を吐く。
下で寝ている同居人を起こさないように梯子を下りて、上着を羽織る。小さな寝息を背中に感じながら廊下に出れば、部屋よりも冷えた空気が足元をひやりと撫でていった。早い時間だからこそ、廊下にひとけはない。それでも、微かに漂ってくる香りが鼻をくすぐる。その匂いが、入学当初から好きだった。
忙しい両親に代わり、食事はなるべく私が作るようにしていたから新鮮で、同時に両親がちゃんと食事を取っているかというのが気になった。
私よりも長い人生で生きてきた二人だ。特に心配をする必要などないのかもしれないけれど、幼い頃に過労で倒れた姿も見ている。医学に携わる者として不養生はいかがなものか、と祖父が激怒していたのを見て、恐ろしさから泣いてしまったのも懐かしい。剥き出しの感情に晒されることが多くない幼少期だったものだから、心を覆う殻はとても脆かったように思える。
その出来事があったことで祖父に対して苦手意識が芽生えてしまったのだが、それを非常に気にしていると聞いたのは何年前のことだったろう。また今度電話でもしてみようか。文字でのやり取りは好きじゃないようだから。
「やっぱり、寒いわね」
袖を伸ばして、微かに頭を出している指先に吐息を落とす。寮の外に出れば、廊下の寒さなど序の口だと言わんばかりの寒さだ。やはり、住む場所が変わろうと冬は寒い。
じりじりと肉を焼くような息の詰まる夏よりもきんと冷えた冬の方がまだマシだけれど、苦手というのは変わらない。それでも、雪さえ降らなければ、構わないのに。
「……降るかしら」
わたあめのような、という形容がまるで似合わない雲が空に蓋をしていた。汚れた白いスポンジはこんな色をしていただろうか。なら、そこに含まれた汚水がいつぱたりぱたりと落ちてきても不思議はない。
「大丈夫」
くすんだ空気に、凛然とした音が広がる。瞬いた視界の中で、きれいに切り揃えられた髪がふわりと流れていく。その後ろ姿は、私の生活の中にもよく残るものだ。
見てくれだけ整えた私とは違う、覆うべくもない優等生。
果たして、言葉は私に向けられたものだったのだろうか。独り言であった可能性も否めないのだけれど。
それでも、大丈夫だと残した彼女の言葉が冷えた胸にぬくもりを落とす。重たい空にもう一度目を移し、背を向けた。やわいあたたかさの灯った部屋に戻ろう。きっと、同居人ももう少ししたら起きてくるだろう。
そうして幕の開けた一日は、雨も雪も、降ることはなかった。