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【個人企画】ハロウィン サンプルSS
とある女のノートに残された物語――。
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数日かかる仕事だった。外泊を要求される内容で、家から随分離れた場所での仕事だったから、当然ながらその間一度も家に戻ることができなかった。
血が欲しい。それは食欲に似た快楽を求める感情。飢えを満たすための欲求。
吸血鬼であることを隠して生きているアレンにとっては、人目にさらされ続ける期間は、血を一度も飲むことができない期間だ。一人での仕事なら都合をつけることもできるだろうが、生憎今回は自分だけではない。隠れて血を飲むにしろ、正体を知られるリスクが付きまとう。だから、数日だけ我慢することにしたのだった。
数日もの間、一口も血を飲まないのは久々だった。ほとんど毎日のように血を分け与えられていた身体は、その味も欲もよく覚えていた。だから仕事が終わって帰路についたときには、如何にして血をねだるか、ということで脳が支配されていた。
「ただいま」
家の中に漂う甘い匂い。姉――リリアの身体から漂う、血の香り。
「おかえり。お疲れ様、大変だったね」
彼女がくれた労いは、恐らく仕事に対するものなのだろう。しかし飢えたこの身は、この欲を抑え込んでいることへの労りの言葉だと理解した。
「ね、頑張ったでしょ、僕」
だから血をちょうだい。
リリアの前に膝をつき、彼女の手を取る。彼女の細い指に自分のそれを這わせ、口元に近づけた。
「いいよね」
彼女が断らないことは知っている。リリアはアレンに血を与えることを役目だと思い込んでいるから、求めなくても血を差し出してくれる。それでも「ねだる」という手段を踏んでいるのは、彼女から奪っていると思いたくないだけだ。
「うん。いいよ」
ご褒美。そんな言葉が耳に降ってきて、たまらずに彼女の指に牙を突き立てた。ぷつりと皮膚が破れて、温かな液体が口内に流れる。
リリアの血は、甘い。他の人間の血を飲んだことは何度もあるけれど、それでも彼女の血が一番美味しい。白い首筋に噛みついたときはその味をもっと感じられるけれど、飢えているときは血を吸い過ぎてしまいそうだから、指先に歯を立てるだけに留めていた。
「これだけでいいの? おなか空いていない?」
指を離すと、リリアが心配そうに見つめてくる。
「ううん、大丈夫。これ以上は姉さんが貧血になっちゃいそうだし」
彼女の身体が心配というのも勿論あるけれど、これ以上血を飲んだら止まらなくなる気がした、という理由の方が大きかった。
「美味しかった。ありがとう」
アレンが微笑みを浮かべると、リリアはゆっくりと頷いた。
「昨日裁縫してたら指を刺しちゃって」
アレンが美味しいと言うから、どんなものか気になって舐めてみたらしい。ただ、苦い鉄の味がした、とのことだった。
「やっぱり吸血鬼じゃないと血は美味しくないんだわ」
「姉さんは人間なんだから。それでいいんだよ」
「それもそうだね」
その時の血が欲しかった、というのは黙っておいた。
同じ胎で育ったはずなのに、リリアは人間に、アレンは吸血鬼に生まれた。アレンが吸血鬼特有の能力や魔術を使えるのに対して、リリアはほんの少しの魔力も持たない。その理由は分からないけれど、リリアが血のために他人を求めなくて済むのは、アレンにとっては好都合だった。愛しているひとが自分以外の者を求めるなんて、許せるはずがないのだから。
「僕がいない間、危ないことはなかった?」
「アレンが結界張っていってくれたんでしょ、危ないことなんてないわよ」
「それはそうだけど、そうじゃなくて」
リリアは知らないのだ。自分の血にどれほどの価値があるかなんて。だからアレンの心配をすりぬけるように笑っている。
やっぱり、姉さんは僕が守ってあげなきゃだめなんだ。ずっとこの安全な家にいてもらわないとだめなんだ。
一つ息を吐くと、甘美なようで苦いものが胸の奥からこみあげてきた。それを飲み込んで、アレンはそっと言葉を吐き出す。
「確かに、この家は一番安全だからね」
外に出たら、姉さんは食べられちゃうよ。