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歩く人(丁寧語文体)
男が向かったのは寂れきった漁村でございました。
人はもうとうにおらず、聞けば川から上の工場で水が悪くなって、たちまち病気になったというのです。
男は穴の空いた木造の家や、そこから見える腐り落ちた畳、家具がまだ残っている様子をにし目ながら歩いていきます。
ともすればそれは痛々しく、男は静かに家屋に向かって頭を深々と下げます。
「……穏やかでありますよう」
静かに死に絶えたこの村の、川辺を行けばなんてことのないように泳ぐ魚が居ます。
当たり前のように泳ぐそれは、村の歴史よりも遥かに浅い歴史を歩む稚魚に囲まれていました。
雄大な自然は人の生活を侵食し――否、これが本来の姿でありますので、植物は人の居た痕跡を覆い隠し、いくつかの家屋を自分たちの居所として、かつての居たであろう家人のように居座っております。
「おや」
男が顔を上げると、川の上流の方に墓地が見えました。
歩いてそこにたどり着くと、最早墓石とは言い難いほど朽ち果てた石がございました。
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男は葬儀屋をやっておりました。
ご遺体と対面し、ご遺族と面会し、つつがなく葬式を終わらせるお仕事です。
資格を取り、家業を継ぎました。継いだ家業は、今は他の従業員に任せておやすみ中です。
男は、今、弔う旅をしています。それは死に絶えた場所への弔いの旅。
きっかけは簡単なことでした。
彼のかつて住んでいた懐かしの家が老朽化で取り壊された時に、こう思ったのです。
世間はなんと滅びと再生に満ちているのだろうと。
それから彼は旅の準備を始めました。そうして旅を始めました。
使われなくなったテーマパーク、石炭の黒い輝きの失せた炭鉱街、誰も住むことのなくなった団地。
人が居なくなった「場所」を弔い歩き、在りし日の思い出に勝手に思いを馳せるのはエゴではありましょう。
しかしそうせずには居られなかったのです、壊された男の家族の居場所は新しく埋め立てられて五人家族の住まいとなりました。場所は生き物のようです。時に再生し、そして時には再生されないまま。
男が今まさに立っている漁村は、その再生されないまま死に絶えゆく「居場所」でございました。
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朽ちた墓石の前の水道の蛇口をひねっても、水は当然のように出てきません。男は川に向かい、水筒で水を汲みました。それから、ひとつひとつの墓石に水をかけて、手にしている雑巾で綺麗にしていきます。
綺麗にすると行っても、遠くから来る潮風ですっかり朽ちているので、心ばかりのお掃除です。
男はそうしてあらかたの墓石を掃除したあと、静かに手を合わせました。
「私は貴方がたを存じません。 貴方がたの生活を存じません。 ですが――」
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男は漁村を立ち去ります。もう三十という年頃なので、健勝なまま行ける場所は限られています。
ただ、急ぐ旅ではありません。であるからこそ、ひとつひとつ死にゆく場所を歩むのです。
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「ですが――貴方がたを知りたかった」
だから、一言、その言葉が漏れたのです。