PandoraPartyProject

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『アカシア』

●ホーム・ゲームI
 涼やかな音を立てて店の扉が開いた。
 ムードのある間接照明にグラスの中の琥珀色を遊ばせる男は嫌という程絵になった。
 絵画的にその場の『主役』に違いない一人の男――レオン・ドナーツ・バルトロメイは一瞬の間さえ演出にするかのように、くすんだ碧眼をそちらへ向ける。
「お早い御着きで」
「――時間通りですけどね!」
 少しウェーブがかった桃色の癖毛が何とも色っぽい。
 愉快そうに言ったのは、年の頃は二十代半ば頃、レオンよりは一回りは下の美人である。
 ボーイに粉雪の散ったコートを預けアーリア・スピリッツは艶やかな笑みを見せていた。
「それにしても……先に来させないわよね、レオン君は」
「遅刻してつまらない相手にはしない主義でね。
 オマエが『そういう』タイプならたっぷり待たせてやるんだけど」
 カウンターの左端二番目の席は大抵レオンが自分用にしている居場所である。幻想きっての高級店――会員制(トゥデイ・トゥモロー)に迷惑な酔客等殆ど現れないが、隣をガードするように左端の席のスツールを引いた彼に「どの口でそれを言うのかしらぁ」とアーリアは笑ってみせた。
「どういう意味?」
「……これは、あくまで風の噂だけど。
 そう、これはあくまで風の噂なんだけど――
 ついこの間、レオン君がこのお店に『背伸びしたがる女の子を誘った』って話を聞いたのよねぇ」
「耳がいいな」
「そうでもないわよ。ただ、ちょっと興味があっただけかも」
「成る程、好奇心旺盛でいいね。
 ただ、俺も結構耳がいいから――火遊び好きがこの間折檻された話は聞いてるけどね」
「うっ……!」
 息を呑んだアーリアだが、これは些か芝居がかっていた。
「どっちにしても『からかう』のは程々にしてあげなさいよねぇ。あんな『いい子達』を」
「それも『可憐なDorama』だろ? ま、その台詞そのままオマエに返してやるけど」
 グラスをぐっと呷ったレオンにアーリアは「バレたか」と小さく舌を出していた。
「レオン君ってたまの浮気相手としては本当に最高だからねぇ」
「ややこしい所の何処にも触れない『浮気』ねぇ」
「手位は握ったじゃない。それに、相手持ちはレオン君がノーサンキューでしょ?」
「バレたか」
 丁々発止とやり合うその声色は軽やかに明るく、その豪奢な美貌に劣らずに華やかである。
 相手が俳優ならば此方も女優。折角の火遊びなのだ。彼は疲れた顔をして付き合う相手ではないのだから当然か。レオンの言う所の『折檻(みでぃーくん)』は実際の所、恐ろしくない訳ではないのだが、アーリアの場合、それもいい『スパイス』になるのだから一石二鳥の所もであろう。
「キール・ロワイヤル。あとウィスキーロックでもう一つ」
「……で、いい?」と視線を投げたレオンに「もう頼んでるじゃないの」とアーリア。
 特異運命座標でも強いコネも無ければとても入店出来ないこの店が『顔パス』になってから暫く経つ。
 レオンは流石にローレットのオーナーであり、これはそれを実感する貴重なシーンであるとも言える。
「そう言えば」
「うん?」
「レオン君ってここ、すごく我が物顔よねぇ」
「長いからな、それなりに。最初に来たのは――ええと、そうだな。何時だっけ?」
「そうですね。レオン様が最初においでになったのは――十九年と少し前の事だったように記憶しています」
 水を向けられれば、カウンター向こうのバーテンダーはグラスを二つ二人の前に置き、静かに答えた。
「やっぱり長ぇな。それじゃ、流石にホームだぜ」
「十九年! じゃあ、その時のレオン君は二十歳位か――」
 可愛げの欠片も無い隣の男が二十歳の頃等、アーリアには想像もつかなかった。
 悔しいが少なくとも顔がいい事だけは確かだが、それ以外が靄に包まれて上手く結びつかない。
(……いえ、ちょっと待って……?)
 少し癪だがレオンに弱いアーリアはこの男に『詳しい』。聡く『まだ』酔っていなかったからふと気付く。
 それはある意味でごく当たり前の話でもある。
『王侯貴族さえご用達にする幻想きっての高級バーにレオンは二十歳から出入り出来るような男だったのか』という疑問である。
(レオン君が冒険者を始めたのは十代だったとして――
 実際、一気に有名になったのは二十一だか二の時の『笑うタナトス事件』よね?)
 彼は少年時代にローレットを興したと聞く。
 しかしローレットが大ギルドに育ったのは『蒼剣』の伝説と共に、である。
 二十歳そこそこのレオン・ドナーツ・バルトロメイは未だ綺羅星のような英雄譚に触れていない……
『つまり、どう考えても彼はこのトゥデイ・トゥモローに出入り出来るような男では無かった筈だった』。
 寡黙なバーデンダーはそれ以上何も言わず静かにグラスを磨いている。
「……………」
 手の中でグラスを遊ばせたアーリアはそっとレオンの横顔を窺った。
 レオンは何時もの通り顔が良く――気のせいか。少し遠くを見るような顔をしている、そんな気がした。

●アウェイ・ゲームI
「遅いわよ、――君」
「そうか? 俺にとっては時間通りだった心算だけど。
『大体、アンタだって必ず遅れてくるじゃないか』」
「言っておくけどそれ、語るに落ちてるからね。別にいいけど」
 華やかに鈴が転がるような笑い声で――店に遅れて行く度にやんわりと窘められるのが常だった。
 別に酷く忙しかった訳ではないが――定刻通りに行くのも癪で。
『約束より決まって五分遅れて来る女を余分に十分待たせてやる事は、彼にとっての実に子供染みた対抗意識だったに違いない』。
「……じゃあ、何時もので」
『カウンターの左端二番目の定位置』に座った女の横――カウンターの一番左端に腰を下ろした青年はそんな風に注文をする。
 店に出入りするようになったのは僅か二か月程前の出来事で、酒自体もその頃に覚えたようなものだ。幻想きっての高級バー(トゥデイ・トゥモロー)には余りにそぐわない幼い雰囲気と、冒険者然とした格好は物笑いの種にはなっても、決して彼を風景に馴染ませはしない。寡黙なバーテンダーはそんな場違いな青年と、『隣で完全に風景の一部として成り立っている美しい貴婦人』の対比にすら何の好奇心を向ける事は無い。人間は多くの秘密を纏うものであり、泡沫の夢は尚更だった。夜には夜の作法がある。
「随分と頼もしい事」
「……っせえよ」
「まぁ、でもその位の方がいいわ。だって貴方は私の連れなのだもの。
 余りおどおどしているようじゃ――そんなの、ねぇ? どうしたって退屈だわ」
 頬杖をついて流し目を送る女に彼はいよいよ嫌な顔をした。
 少なくとも歳上である事は間違いなかったが、年齢不詳の気のある女であった。
 彼女は美しかったが、その素性も何も――実際の所、彼は知らない。
 唯、彼女が『やんごとない』身分である事の想像自体は難くなかった。身に着けている上等のアクセサリーも、洋服も、それから彼を誘った煌びやかな世界も『想像』を一つも裏切らなかったからだ。冒険者風情何て門前払い間違いないこの店が、連れだというだけで何も言わない、詮索もしない――彼女という人間の持つ意味を教えてくれた。
「だが、一応――そうだな、『一端』とは認めてるんだな、『アカシア』」
「だって、レオン君、いい男だものね。連れて歩くにはこんなに素敵なアクセサリー無いじゃない」
「アンタもまあまあ綺麗だよ。中身さえ知らなきゃ癖になる程度には」
「あらあら。女性の褒め方はまだまだね」
「それもアンタが『教えて』くれるんだろう――?」
 漸く『名前』を呼ばれた女がまたコロコロと笑ってみせた。
 心底おかしそうに笑う彼女のそんな姿は何処か煽情的で、同時に挑発的でもあった。
『アカシア』。それは当然ながら本名ではない。彼女が彼にそう名乗っただけの呼び名である。
 出会った最初から幾重にも秘密のヴェールを纏った女はまるでそれをめくらせなかった。
 メフ・メフィートの裏通りで――こんな貴婦人がうろつくにはこのバーの彼と同じ位に不似合いなそんな場所で――出会ったのが最初だったが、それから何も変わっていない。
 昏い目をして『自身を助けた男』を見上げた『アカシア』はあの時言ったものだった。

 ――そう、そうだわ。いいアイデアがある。貴方、私に付き合いなさい――

 ……出会いは唐突で理屈は案外不要だった。
『とある事情を持て余す』レオンは幾らか荒んでいたし、『アカシア』は頭が良く腕もあり、何より顔立ちのいい彼をとても好んだ。
『それ以上のややこしさ』を必要としないある種の男女の機微だけがそこにあった。
 二人の時間が交わるのはこのバーでの幻想めいた時間と少し――そればかりだ。
 それ以外は不干渉。それ以外は何も知らない。
 恐らくは如何に時間を重ねても、終わりの頃までそれは変わらないのだろうと思わせた――
「――本当にいい性格してやがる。『アカシア』、アンタ一体何なんだ?」
「さあ?」と『アカシア』は惚けてみせた。
「レオン君は賢いからね。訊ねながら『分かってる』。
 貴方は冒険者だから――そういうのが専門だから、きっと調べようと思えば調べられるかも知れない。
 でも、そうしようとは思わない。違わなくて?」
「……」
「泡沫の胡蝶の夢に無粋をしない。君は確かに若いけど、そういう所は嫌いじゃないわ」
「『泡沫の胡蝶の夢』ね」
 奇妙な『一致』がこの時間の――本当の『理由』だったのかも知れない。
『アカシア』の揶揄も、応じたレオンの嘲笑もやはり自身を向いている。

 ――だって俺は。俺はオマエが大嫌いだからな――

 重ねても無為。道ならぬ道はあな遠く――理想はこの一瞬にも掌から零れ落ちる。
 不感症の女はこちらを茫と見るばかりで「それみた事か」とさえ言わない。それが無性に腹が立つ――
(……クソ女め)
 ……秘密に秘蜜。爛れた味を貪る事が罪ならば、『本当の事』をおくびにも出さない事を責めるなら。
 偽りと一時の夢に酩酊する事が罰ならば、他ならぬレオンに『アカシア』を責める資格等有り得まい。
 誰も知らない。何も知らない。世界中が一言も謗らなかったとしても、自分自身は別である。
 それは自分自身の知る罪の果実の味わいに他ならないのだから、自縄自縛の呪いは逃げて逃げて逃げた――果ての先まで追いかけてくるものなのだから。
「あらあら、遅い思春期?」
「訳知り顔で言うんじゃねぇよ。俺もアンタも相手の事なんてまるで知らない――違うかい?」
『アカシア』は肩を竦める。
「それでいいじゃねぇか。だからいいんじゃねぇか。それで『アカシア』。今夜はどうする?」

 ――二人の逢瀬はバーの一時。しかし興が乗れば、もう少し『先』がある事も珍しくはなかった。

●アウェイ・ゲームII
「煙草を吸う女は嫌い?」
 独特の、饐えた匂いが漂う部屋で冗句めかして尋ねる『アカシア』は答え等求めていないようだった。
 高貴な身の上も、まだ何者でもない野良犬めいた冒険者風情であろうとも一皮剥いてしまえば同じ事。
 やたらに享楽的で刺激的で刹那的で退廃的な。
 そんな時間は如何にも虚無であり、憂鬱に甘く苦かったものだった。
「――アンタも大概な女だよな」
「そうかしら?」と首を傾げた『アカシア』は良く鳩が鳴くような声で笑っていた。
「くくっ」と小さく鈴を転がした彼女は露悪的であり、何処か挑発的でもある。
「だってそうだろ? アンタはどう見たって訳アリのお偉いさんだ。
 一周回ってアンタ位になれば『浮気』も『放蕩』も自由なのかも知れねぇけど」
「珍しく攻めるわね」
『アカシア』の豊かな肢体を包むシーツが言葉に合わせて僅かに動く。
 僅かな布擦れの音が『ここに在る彼女』の何よりの証明だった。
『アカシア』は枕に肘をついてレオンを見つめていた。
 彼女がふかす紫煙がゆらゆらゆらゆらと揺れている。
「知りたい? 知りたいなら教えてあげなくもないけど」
「心にも無い事を言いやがる」
「あら、心外ね。第一、答えだって『NO』でしょう?」
 レオンは肩を竦め、『アカシア』は我が意を得たりといった顔をした。
 詮索しないのは一言も申し合わせなかった二人のルールであり、この逢瀬の『絶対』だった。
 レオンも『アカシア』も『必要なだけ』お互いを知っていた。どちらも見えない所が不足だらけの継ぎ接ぎだらけで――すました顔の不器用だと分かっていれば十分だったから。
「……でも、そうね。もし、レオン君が聞きたいなら少し位は話してもいいかな」
「奇遇だな」
「……?」
「俺もそう思った所だ。『もし、アンタが聞きたいなら特別に教えてやってもいい』」
 年下の青年が偉ぶる姿に目を細める。「えらそう」と『アカシア』は破願した。
 コン・ゲームのような言葉のやり取りは常であった。瀟洒であり、心地良かった。
 僅か数か月前に出会った二人が重ねてきた言葉は意味があるようで意味がない。
 意味がないからこそ意義があり、胸の内の『澱』を吐き出す時間は『特別』だったのだ。
 だからこの時、二人がどちらからともなくそう切り出したのは――確かな『変化』だった。
 この時、彼と彼女の会話が何時もより『弾んだ』のは偶然に過ぎなかっただろう。
 何か理由があった為では無く、何の意味がある訳でもない――『たまたま』そういう空気だっただけ。
 故に熱く温く肌を重ねても上滑りする会話が少し『噛み合った』のに大した意味は無かっただろう。
 それでもそれは、ある種の結末を感じさせるに十分で。
 運命的な直感は恐らくは彼と彼女両方にあった。
 止める事は出来たけれど、止めなかった理由も殆ど同じだっただろう。
 レオンも『アカシア』も少しお互いに踏み入り過ぎたのだ。故にこれは終わる。終わるべきだった。
 好奇心も、未練じみた感情も腐れた果実の園には、何ら必要なかったのに――
「或る女の子にはね、好きな人が居たのよ」
「俺も居るよ」
「……結婚する前にね。一生で一度と思える恋をした。
 この人と結ばれる為に私は産まれたんだって――本気で信じていて。
 物語の娘みたいに、世界は何時だって華やいでいたわ。
 おかしいわよね。私は今、君の隣に居る位なのに」
『アカシア』は悪戯気な調子で天井を眺めながら睦言を聞くレオンを眺めていた。
 否定の言葉が欲しいのか、肯定の言葉が欲しいのかは器用な彼にも分からなかった。
 だからレオンは『思った通り』に相槌を打つ。
「悪女(あばずれ)も野良犬になら丁度いいだろ。第一、俺が文句を言える筋合いじゃねぇよ。
 ……アンタには世話になったし、実際ここ暫くは楽しかったしな。
『少なくとも俺は――好きな女の事考えてるよりはずっと』ね」
「優しいんだか、優しくないんだか――でも、素直じゃないのは確かかしらね?」
 レオンは可愛くないから、そんな程度では怯まない。
「それで、恋する乙女はどうしたのさ」
「そう遠くない内に世の中の仕組みを知ったわね。
 女の子は満ち足りた家で蝶よ花よと育てられたけれど、そんな風に生きられるのには当然理由があった。
 そういう産まれには高貴な義務があるって言うのかしら。
 彼女は十六を迎える前に愛の無い結婚をした。
 二回り以上も年上の――顔も見た事がない男に嫁げと命じられたのね。
 身分不相応の恋をして『大好きな、優しいお父様なら分かってくれる』なんて夢を見て。
 何より大切な恋を訴えて、その次の日には『彼』は彼女の世界からすっかり消されてしまったんだわ」
 言葉に満足したのかどうかは定かでは無かった。
 だが、独白めいた『アカシア』の言葉は熱っぽく。くすんだ部屋の中に揺蕩っている。
 隠す心算も無い有り触れた話は笑ってしまう程に陳腐そのものだった。
 ……泣きぼくろがある女は良く泣く、とレオンは聞いた事があった。
 ひょっとしたら、隣の女もそうだったのだろうかと彼は茫と考える――
「嫁ぎ先はこの幻想の大名門。きっとお互い様はお互い様なんだけど、それは酷い男だったのよ」
「……」
「いちいち挙げたらきりがないから割愛するけど――そうね、考え付く限りの一通りは。
 女の子は一杯泣いて、もう涙も零れなくなった。何かに期待する事は諦めて、たった一つ残ったのは――」
 声色のトーンが低くなった時、レオンは傍らの女を見た。
 蠱惑的に視線が絡み、『アカシア』の少し厚い唇がアーチを描く。
「――唯、静かな『殺意』だけだった。
 他人は今が自由ならいい、と思うかも知れない。
 好きなように生きて、何時か自由になれる時を待てばいいと思うかも知れない。
 ……でも、彼女は違ったのね。好き勝手に『我が世の春』を謳歌して、自分に叶わない事なんてないって顔をした男が絶望する姿が見たかった。絶頂から前触れもなく破滅した時の泣き喚く顔が見たかった。
 まぁ、唯の自己満足なんでしょうけど――中にはそんな女もいるものだわ」
「……情が深いってのはいいモンだ。じゃ、訳アリ物件も特大だったって訳だ」
 レオンの揶揄を『アカシア』は「まあね」と受け流した。
『知りたいなら教える』と彼女は言ったが、『聞いて欲しい』と素直に甘えた方がずっと正解に近かろう。
 明け方の睦言に余りに似合わず、夜明け前の微睡の薄暗さは辛うじてその仮面を剥がさずにいるまでだ。
 レオンは一つ嘆息をして、サイドテーブルから煙草を一本。口に咥えた。
「さっきの話」
「……?」
「煙草を吸う女は嫌いかって――」
 随分短くなった『アカシア』の煙草に口を寄せ火を移したレオンは言った。
「――嫌いじゃないよ。むしろ、アンタは好きな方だ」
 秘め事の部屋の中には何時も嘘ばかりが満ちていた。
『アカシア』の花の蜜に幾らか溺れて、二十歳の頃のたった三か月を共にした。
 しかし、青年にとってそれは忘れ得ぬ時間であり、記憶の底に焼き付く『特別』だったに違いない。
 だから、無駄と知りながら『否が応無く問うてしまう』。
「『どうして頼まなかった』」
「……どういう意味かしら?」
「隣の男は荒事専門の野良犬だぜ。『彼女』は裏通り何かに用がある女じゃなかっただろう?」
 初めて会った時、彼女は何かを探していた、そう思った。
 だがそれは『何か』だったのか? 『誰か』ではなかったのか?
 咲き誇る花に秘められた毒をそっと託す、そんな都合の良い男ではなかったのだろうか?
「その答えは、そうね。
 …………あれ? 本当に不思議。一体、どうして――どうしてかしら」
 小首を傾げる『アカシア』はわざとらしさも抜け、まるで童女のようだった。
 物語の『女の子』がいるなら、きっとそんな風。
 そんなもの、もう何処には居ないのだけれど――
「意地悪な難問ばかり。レオン君ってなんでそういちいち意地悪なのかしら。
 ……ええ、そうだわ。過去形で言ったけど。生涯一度なんて言ったけど――」
 枕に頭を預けて目を閉じたレオンに『アカシア』は告げた。
「――ううん、何でもない。それはいいわ。やっぱり、いい」
 それは酷く疲れた、苦笑交じりの言葉だった。
「おやすみ、『アカシア』。幸運を祈る」
「ありがとう、レオン君。何も言わないから――貴方が好きよ」
 ――それはお互いに理解した「さよなら」の代わりの挨拶だった。



 メルヴュール侯爵家の当主ブランツ・オットー・メルヴュール侯爵が妻のミモザと共に奇異なる死を遂げた事件はメフ・メフィートのトップニュースとなった。
 所謂黄金双竜――フィッツバルディ派に属するメルヴュール家の醜聞(ゴシップ)には緘口令が敷かれたが、人の口に戸は立てられず。曰く『侯爵は病気で世を儚んだ』とか『美しい妻を独占する為に心中した』とか実に様々な憶測が飛び交ったものだった。
 しかし、分厚いカーテンの向こうの出来事は決して市政には知らされない。
 人々は醜聞を消費し、その内忘れ、街は彼等の事等すぐに忘れ去ってしまった。
 レオンがもう用の無くなった『トゥデイ・トゥモロー』に足を運んだのは事件から数か月後の事だった。
「まだ入れてくれる?」と苦笑して尋ねたレオンにバーテンダーは彼に託された小さなカードを渡す。

 ――花言葉(アカシア)を貴方に。忘れないで、逢いに来てね。

 そのサインは、ほんの少しだけ滲んでいた。

●ホーム・ゲームII
「……ねぇ、レオンくん」
 グラスの氷がカラン、と澄んだ音を立てた。
 レオンが少しの追憶から我に返ったのは隣に座るアーリアが不機嫌な声を発した時だった。
「これは、ひょっとしたら――ひょっとしたらの想像なんだけど。
 嘘の上手なレオン君が本気で誤魔化すなら、追及し切れない程度の根拠しかない女の勘なんだけど。
 もしかして、レオン君。今、こんなにイイ女が隣に居るのに『別の誰か』のこと考えてたんじゃない?」
 会話が止まったのは僅かな時間である。
 ムーディーな高級バーの空気はそんな些細な沈黙も極上の酔いに変えてくれるものだ。
 しかし、大人びた美貌の割に少し幼げに不満を示したアーリアは実に可愛らしく拗ねた顔を作っていた。
 さもありなん、彼女は良く自分の魅力を分かっている。
 そんな姿こそ、何とも男心を擽る手管の内には違いないのであろうが。
「まさか」
「本当に?」
「……いや、オマエの言う通り。お見それしました」
 肩を竦めたレオンは「助けてよ」とグラスを磨くバーデンダーに視線を送る。
 客が求めなければ余計な事は『一切しない』彼は「では」とレオンに待望の助け舟を出す。
「お気になさる必要は無いかと。これはあくまで私の想像に過ぎませんが――
 今、レオン様が考えておられたのは、お客様――
 ――まさにアーリア様に『良く似た』とても美しい貴婦人の事でしょう」
「ふむふむ?」
「御顔立ちが、というより雰囲気も含めてですが――まぁ、これは私の想像に過ぎませんがね。
 レオン様にとっては『昔のお話』という事になりましょうね。
 つまり、レオン様がかの方を思い出したのは今夜のアーリア様が取り分け美しかったから。
 ……レオン様、この辺りで如何でしょうか?」
「十分だ、ありがとう」とレオンはグラスを飲み干した。
 ウィスキーを開けるペースが何時もよりは少し、早い。
 目敏いアーリアはそんな事をふと考えて、逆に進まないキールをちびりと舐めた。
『一仕事』を終えたバーデンダーは空になったレオンのグラスに次の一杯を注いでいる。
「女もそうだけど男もミステリーを着た方がモテるんでね。
 俺ってあんまり自分の事、他人に教えないのよ。だから今のは特別サービス」
「……はいはい。私は貴方が何処の可憐な天使の事を考えていても構わないわよ。
 背伸びしたがりなかわいこちゃんの事を考えていても、はたまた過去に泣かせまくった女の事を考えていても――嫉妬も口出しもしない都合のいい女ですから?」
「俺だって相当都合がいいじゃない」
「女の子は特別です! 女心が解ってないわねぇ。
 それともさっきの――気付かせた上でどんな顔するかなんて思ってたら――ほんっと、嫌な男だわ!」
「機嫌直してよ、折角の美人が台無しだし――」
「――だーかーら、罰として今日もレオンくんの奢りね! はい、決まり!」
「これだもん」
 レオンが大仰に降参のポーズを取れば二人のみならず、周囲の客から小さな笑いが零れていた。
『トゥデイ・トゥモロー』の夜は何時だって瀟洒だった。
 レオン・ドナーツ・バルトロメイが店に相応しい男になる時さえ待って、それは昔も今も変わらない。

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