PandoraPartyProject

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地上の星


●起
 自分で言うのも何だけど、それなりに良い子にしている心算だった。
 お母さんの手伝いは良くしたし、幼い弟の面倒もちゃんと見れていたと思う。
 仕事の大変なお父さんに我儘は言わなかったし、勉強も出来る範囲で頑張った。
 家は特別裕福ではなくて、私はきっと凡庸だった。
 人と比べての『特別』は何処にも無かったけれど――逆にそれが安心出来た。
 歳を重ねるにつれて世界は何時でも幸せなものではないと分かっていたけれど――私の世界は狭いままで。
 高天京で色々な事が起きてもそれはきっと遠く離れた物語を見ているようなものだった。

『私の世界は何時でも幸福に違いなかったから、すぐ傍に幾らでも転がっていたそうでない話は他人事に過ぎなかったのだ』。

 幸せな幼年期と言えばそうなのだろう。
 だが、多くの子供が永遠(それ)信じて疑わないのと同じように、私も狭い世界が永遠に続くものだと信じていたのだ。
 私の幸福は砂上の楼閣よりもずっと頑丈で、同時に砂の上に立っているようなものよりはマシ、程度のものでしかなかったのに。

 ――ちゃん、気をしっかりもってね?

 あまり知らない親戚のおじさんが心配顔でそう言った。

 ――大変だと思うけど、蛍ちゃんはお姉さんなんだから。遮那君の為にもしっかりしないといけないよ。

 それはそうだと思ったが言葉はやけに上滑りしていて、全く入ってこなかったのを覚えている。

 ――それで、これからの事なんだけどね。
 助けてあげたいのは山々なんだけどうちも正直大変で――

 ……狭い世界(コップ)は割れてしまえばそれまでだった。
 破片だらけの硝子は簡単に手を傷付けてしまうし、不十分な器は碌に水を掬い上げる事も無い。
 無条件に続くと思っていた優しい世界は、実際困ってみればそう甘いものではなくて。
 私達に残されたのは『即座に野垂れ死なないだけの最低限の思いやり』でしかなかった。
 ……嗚呼、でも別に、そこに恨み言を言いたい訳ではないのだ。
 高天京を襲ったあの夏の出来事は――誰の心からも余裕を失くしていた。
 私達兄弟の世界が壊れてしまったのは、無数に破れたページの内のたった一枚でしかなかったのだから。

●承
 おなかすいたなぁ、なんて思うのはとっくの昔に辞めていた。
 私達は辛うじて幸運な方で、あの夏から一年近くを二人で過ごす事が出来ていたけれど。
 庇護を失った子供の――一人前にもなっていない小娘の出来る仕事なんてたかが知れていて。
『他に方法が無いならば、しなければならない事は全てやった』。
 ……暮らし向きは本当に最悪で、せめて弟には辛い思いをさせたくなくて。
 でも、私は実際の所、酷く疲れて――擦り切れていた。
「これより、天香長胤殿一行が参られる! 道を開けよ! 決して無礼のないように!」
 ……たった去年の大災をもう忘れてしまったかのような。
 煌びやかな都の大通りで『無邪気に遮那の欲しがった飴玉を買いに出た』私が出会ったのはそんな居丈高な声だった。
 全身を正装に包んだ偉そうな役人が人通りを掻き分けその時を待っていた。
 私はその時、何となく思った筈だ。丁度、そんな記憶がある――

 ――そうか、これから来るのが私達の『恩人』か――

 ……私達が辛うじて生きる事が出来たのは『八百万』だったからだ。
 高天京の方針は清々しい位にハッキリしていて、この街に『獄人』の顔はない。
 高天京という大きな利得を八百万のみが独占する事で、歪にこの国は回っていた。
 私達は人並みよりも不幸だったかも知れないけれど、都の外を見回せばそれ以上の光景何てきっと山程あった筈だ。
 少なくとも私は稼ぎ口もある都だからここまで来れただけであり、都の外に放り出されればとっくの昔に死んでいた――と思う。
 そして天香長胤は内裏の意向を取り仕切る最重要人物に違いない。
(……なんて有難い人だろう。どうもありがとうございます。私達を生かしてくれて)
 行列が来る。
 自身の威光を内外に示すかのように多くの供を連れ、豪奢な車に乗った『天香長胤』がやって来る。
 私は心の中だけで彼に強く、強く言葉を投げていた。
(ありがとうございます。ありがとうございます。
 ありがとうございます――こんなに私達は辛いのに『こんな飴玉だって一袋も買えないのに』。
 貴方様はそうして、何でも出来る、何でも叶うって顔をしております。
 ありがとうございます、ありがとうございます――)
 ……私自身、そんな卑屈で攻撃的な考えが酷い責任転嫁(やつあたり)である事は理解していた。
 名門天香の長胤様は市井の全てを理解しまい。されど彼は流行病で甚大な被害を出した神威神楽全体をその辣腕で立て直した立役者である。
 彼が居なければもっと酷い事になっていたのは間違いない。私も遮那もきっともっと――
「……あ……」
 ――とは言え、やはり私は子供だったのだろう。
 思っている事は存外に簡単に顔に出ていたらしく、私の態度や視線は恐ろしく不躾だったのだろう。
 天香の権勢は衰える事を知らず、彼の家――それも『望月』とさえ称される長胤様の不興を買う事は神の怒りに触れるかの如しである。
 私は気付けばそれを見咎めた役人に引き立てられていた。
「随分と見すぼらしいことよ。下賤の分際で天香長胤に不躾な。不敬である事を理解出来ぬか?」
 足を止めた車の前、戸の向こうから声がした。低く良く通る――何とも傲慢な声だった。
「長胤様! このような輩、我々が――」
「――良い。その子供、ヤオヨロズであろう。麻呂が直々に沙汰をやる」
 点数稼ぎに必死な役人を制して、彼は――長胤様は車を降り、私の前に姿を現した。
 周囲はざわめき、遠巻きに私達を眺めている。
『不躾な視線を寄越すのが同じなら』。
 長胤様の勘気を畏れながらも、ふわりと薫る雅は非日常過ぎてまるで見世物のようだった。
「……うん? そなた、顔色が悪いな? それにかように痩せこけ――このような無礼を。一体親は何をしておる」
「父も母も去年に――死にました」
 ……『何の苦労も知らないであろう内裏の御方』のそんな言葉に腸が煮えくり返るような想いだった。
 先に死んだのは母だった。「ごめんね、ごめんね」と今わの際まで私達に謝り続けた。
 酷く苦しみながら、それでも最後まで抗ったのは父だった。命尽きるその時まで父は私達の先行きだけを案じていた。
『そんな話をこのお方は全く知らないし、きっと理解する事も無いのだとその瞬間に確信した』。
「……………何と、それは」
 ……しかし、続いた長胤様の言葉と表情はそんな私の想いと全く裏腹なものだった。
「高天京の――子供が一人なれば、流行病か。それはむごい事じゃ」
「……一人ではありません。弟がおります。
 しかし、どうか御沙汰は私だけに下さいますように。そしてせめて弟にお慈悲をいただけますように」
 言葉と共に家に残してきた遮那の事が気になった。
『私のこの先がどうなろうとせめて遮那だけは幸せになって貰いたい』。
 強いられた話ではなく、それは私の唯一の希望で救いだった。
 無邪気な弟が可愛かった。素直で利発で家族想いの弟だけが私の中で褪せないたった一つの光だった。
「なれば――そうじゃな。そなたは麻呂を見て『苦労知らずの贅沢者』と憎しんだのであろうな?」
「……」
「『自分達の気も知れず、行列ごっこに興じる麻呂にさぞや怒りを覚えた事であろうな』」
「……………」
 私は答えなかった。たった一人なら頷いたが、私には遮那が居たからだ。
「実に不敬じゃ。不愉快じゃ。そなたは麻呂の事を知らぬのに――そなたの価値で麻呂を測る。
 ではその未熟な傲慢さに――麻呂が沙汰をくれてやろう」
 私はこの瞬間を忘れ得ない。
 この先も、ずっと、ずっと、何度も、何度も夢に見る事になる。
「おい、そこの――そうじゃ、そちじゃ。
 この子――いや、この子等を屋敷へ。貧相な子供じゃが、使用人位は勤まろうよ。それに――」
 さっきの偉そうな役人を顎で使った長胤様は息を呑んだ私の言葉さえ待たずに至極傲慢に言い切った。
「――天香の屋敷はその誇りにかけて惨めな生活等させぬのでな」

●転
 この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば――

『望月』とさえ称された長胤様は実際の所、宮中にて無限とも言える力を誇っていた。
 全ての決め事は八扇の先に――筆頭である長胤様の裁可を得て遂行される。
 神威神楽の政治に長胤様が絡まぬ話は殆どなく、長胤様は何時も寝ずに働いていた。
 子供の頃、私は長胤様をせせら笑った事があった。
 苦労を知らない貴族が、市井もみずに気楽なものだと憎しんだ事があった。
 青天の霹靂のように――鶴の一声で私達姉弟が天香に救われる事になった時でさえ、貴族の気まぐれや道楽とさえ思っていた。
 しかし、私はそれからの数年で嫌と言うほどに思い知ったのだ。
 長胤様は私達の他にも幾人もの子供を救っていた。使用人の家族や市井の小さな訴えにさえ心を砕き、『望月の力を以って』叶えられる全てを差配していた。
 ……下賤だ無礼だつまらぬ事と――概ね口は悪く、大抵は酷く皮肉めいていて。その癖、全ての問題は何時も速やかに解決された。
 
 ――天香の屋敷はその誇りにかけて惨めな生活等させぬのでな

 何時かの言葉に嘘はなく。『それは別に屋敷に限った話では無かった』。
 改めて身を近くに置けば政治家・天香長胤の手腕は恐ろしい程に理解出来たのだ。
『天香は高天京に身を置く全ての者に惨めな暮らし等させぬ』という強烈な傲慢さは彼が自分に課した正真正銘の『高貴な務め(ノブレス・オブリージュ)』だったに違いない。
 勿論、私だって長胤様の全てが正しいとは思っていない。長胤様は獄人を救わぬ――救えぬ者と定義した。
 私はそれを高貴な務めを誰よりも理解する彼が自分自身を呪った『諦め』だったのだと思っている。
 政治は全てを救うだけの力を持たず、高天京はこれまで反目し合ってきた全ての民を飲み込むだけの器を持たないから――
 何れにせよ、かくてかつての爪痕を急速に回復させた神威神楽は安寧の時間を迎える事になる。

 ……今だから、今となってだから言うが。『私の身贔屓で言うなら』何より長胤様のお力をもって。

 ……あの霞帝が、天子様がやって来るまでは。



 霞帝は長胤様の御心を酷くかき乱した。
 帝は現実主義者の長胤様がとうの昔に諦めた理想を行く人だった。
 忌憚なく想いを吐露し、出来ぬと諦めずやり遂げようとする人だった。
 私が長胤様を語るのは烏滸がましい事だけれど――長胤様はきっと帝の事が羨ましいのだと、嫉妬しているのだと感じていた。
 長胤様は元々休まぬ御方だったけれど、この頃、良く体調を崩された。
「馬鹿げておる」。
 病床の長胤様をお世話する時、何度もその言葉を聞くようになった。
「馬鹿げておる」。
 その言葉を聞く機会は日に日に増えた。一晩に数度では足りなくなっていた。

 ――何故、ヤオヨロズは獄人を抑圧するのか。そうするべき理由は何か――

 帝より突き付けられた匕首が長胤様にとってどれ程強烈なものだったかは想像するに難くはなかった。
「――馬鹿げておる」
 堪え難い悲痛を感じ、激しく憤り、何より己が飲み込んで見ない振りをしてきた全てに呪われたのだろうと余りにも容易に理解出来た。
「――馬鹿げておる! っ、……く……!」
「……旦那様、御身体に障ります」
 怒鳴った後に床で体をくの字に折った長胤様に涙が出そうな想いだった。
「……」
「どうかお怒りを鎮められますよう。
 旦那様が諦めなければ、帝も旦那様が国を憂いている事を知られましょう」
「……………」
「旦那様はこの神威神楽を長らく導いてきた御方なのですから」
「知ったような口を聞く。下女風情が――」
 ……何度何回と無く聞かされた『長胤様のお言葉』だった。
 そんな彼を嫌う者も居たし、この所は勘気を畏れる者も特に多かったが――
「はい、下女風情です。ですが、だからこそ旦那様の近くに居られます」

 ――正直を言えば。
 本当に浅ましく、我ながら申し訳なく思い、この上なく長胤様に顔向け出来ない話ではあるのだが――
 私は、その一端に触れ。共に過ごした時間の中で『初めて弱さを見せてくれる長胤様のお姿が嬉しくて仕方なかった』。

「……何故じゃ」
「私ならば、お怒りに触れたとて国の大事にはなりません。
 御一族も、御役人様も、八扇の皆様が長胤様を畏れたとて――私は違います。
 下女風情が、太政大臣・天香長胤様の重荷を救えるのならばこれに勝る喜びなどないではありませんか」

 手打ちにされようと構わない。本望だ。私は唯の下女である。
 学も無く、力も無く。唯、この御方に救われただけの使用人である。
 少しばかり長い時間を共に過ごしただけの使用人に過ぎない。
 ……ただ、知らぬ内に。本当に知らぬ内にこの方を愛してしまっただけの女なのだから。

「それに、私は長胤様が無為に誰かを傷付けるような方だとは思っておりませぬ。
 親を早くに亡くした私達姉弟をお屋敷に拾って下さったのは他ならぬ長胤様ではございませぬか」
「同属の好じゃ。大した話ではない。昔の話を蒸し返し――図に乗るな」
 ……言葉は相変わらず可愛くはなかったが、私にとって『それは何より長胤様』だった。
 視線を逸らした彼は割り切れぬ事、やり切れぬ想いをまた度々口にしたが――私はそれで構わなかった。
 本当に、どれ程にボロボロにされても構わなかった。
『蛍』でも、あの地上の星に小さな光を届けられるなら。
 私は天香の屋敷に来てから今まで――不幸せだと思った事はたった一度も無かったから!

●結
 あの日、あの時、あの場所に居なかったらそうならなかったとは思わない。
 見えない歪は間違いなくそこにあって、それは何時か何処かで似たような運命を収束させたのだと思う――

「天香一派め! 今こそ恥と我等の怒りを知れ――!」

 ……体の中を熱い何かが貫いて、抑えた手の指の間から生暖かく赤いものが零れていた。
 聞こえる悲鳴も怒号も何処か遠く他人事のようで、私はやけに遅れて自分の運命というものを自覚していた。
(そうか、私は死ぬんだ――)
 暫く前から霞帝と長胤様は手を取り合うようになり、神威神楽の政治は大きく動き出していた。
 獄人の地位向上に関わる話は八百万で構成される八扇においては酷く紛糾する内容となったが――長胤様に出来ない事等やはりなかった。
 情熱的で善良な帝と老獪で素直じゃない長胤様が組めばこれはもう無敵だったのだ。
 だからきっと、全ては上手くいく筈だったのに――
(遮那、遮那……ごめんね……)
 痛くて、辛くて、悲しくて涙がボロボロと溢れてきた。
 もっと幸せになれるのに。遮那が大きくなって、立派になれる所を見れると思っていたのに。
 最後の家族なのに。たった一人のお姉ちゃんなのに……
(長胤様、長胤様――)
 あの御方をずっと支えられると思っていたのに。
 あんなに素直でない方が、ただただ私を「欲しい」と。あんなにお言葉を下さったのに――
(ごめんなさい、長胤様。ごめんなさい、ごめんなさい。
 貴方様に何もお返し出来なくて、貴方様に嘘を吐いて――きっと貴方様を傷付けて……
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!
 長胤様、長胤様! 私、私は――蛍は――)

 ――まだ、死にとうございませぬ――

●外
 ……
 ……………
 ……………………

「……もう夏も終わるのじゃな」
「はい。もう暫くすれば鈴虫達も鳴き始めましょう。
 夕刻に、浜に出れるのも今の内だけでしょうか――」

 ……神浜で沈む夕日を見たのは何時の事か。

「そう言うでない」
「長胤様?」
「……麻呂とて子供ではないのだ。季節の変わりに風邪等引かぬ」

 ……今想う、交わした言葉は夢か現か。

「蛍。お主には感謝しておる」
「……はい?」
「麻呂が――天香が危急を避けたのは少なからず主の献身があった故じゃ。
 この程は帝も麻呂の言葉に耳を傾けてくれるようにもなった。
 帝の言う改革の道は遠いが、無理を避ければやがてこの国は良き方向へ進む事じゃろう。
 故に麻呂は感謝せずにはいられぬのじゃ。それは主のお陰でもある」
「……そんな、とんでもない事でございます」
「全ては旦那様の忍耐とこの国を想う心があってこそ。陛下のご器量ありましてのこと。
 私なぞ、『下女風情』の出来た事など一つもありはいたしませぬ」
「そう虐めてくれるな」

 ……麻呂は、ただそなたが愛しかっただけなのじゃ。

「……旦那様?」
「全て麻呂が悪かった。主がそう言う度、麻呂の心は少なからず傷を負うのじゃ」

 辛かっただけなのじゃ。望月照らすこの世界の何処にも――そなたがいない唯の事実が。

「もう、夏は終わると云うたな」
「はい」
「……蛍は夏の終わりには失せて消えてしまうものじゃ。主は、麻呂の前から居なくなるか?」
「お言葉の意味が良く――」
「――惚けてくれるな、蛍。麻呂は本気で言うておるのじゃ」

 ……本当に子供のような、酷き問いをしたものよ。

「私は――私は、旦那様の前から居なくなったりはいたしません」
「そうか」
「ですが、旦那様の御気持には――それは大層もったいのうお言葉に存じますが。
 下女――いえ、私風情がどうして貴方様のお気持ちに、ご期待に応える事が出来ましょうや」
「もし、お主が――宮中道理、政治を理由にそれを答えているのだとしたら」
「……」
「侮るでないぞ。麻呂は天香。天香長胤。望月を掴み、叶わぬ事無き長胤ぞ。
 もし、お主が――出自や育ち(つまらぬ)を理由にそう云うのだとしたら。
 それは何よりの間違いぞ。
 麻呂が何を愛でるか――いや、何を愛するか。それを決めるのは麻呂以外に有り得ぬ事じゃ。
 太政の地位にまで登り詰め、宮中の栄華を極めたとて。
 その程度の自由もなくて、一体何を得られたというものか?
 故に――故に、蛍。お主の見続けた情けなき男の吐き出す泣き言を、今一度の未練を笑って許せ」

 ……何と柄に無く、何と情けなき男じゃろうな?

「……随分年上じゃ。この造作もとてもお主とは釣り合わぬ。
 じゃが、惨めついでにもうひとつ。天香は長胤の名に誓おうぞ。
 この上、主がどんな結論を出そうとも麻呂は決して強いぬ。取り乱さぬ。
 蛍、主は主の思うように――言葉を告げよ」
「……………な」
「……うん?」
「ぬばたまの 夏の夜に出る 蛍火は 神ヶ浜にも 恋ひ渡るかな」

 それは遠き万感ぞ――

「……歌を」
「歌?」
「頂けませんか、私にも」

 ――音に聞く 神ヶ浜の 夕凪に にほひを愛でて 出でて来にけり。

 ……
 ……………
 ……………………

「――――!」
 長胤は頬を濡らす液体の正体に気付き、目を開けた。
 その慟哭は誰に伝わる事も無く、唯静寂の闇の中に更に色濃い影を落としている。
「……成る程、そろそろのようじゃな」
 時は夜半。ざわつく気配は決戦の訪れを告げている。
 胸を去来するのは熱く冷たい虚ろの黒。
「……遮那。あの娘、上手くやれば良いのじゃが」
 その名を口にすれば口元に幽かな笑みが漏れた。
 良く出来た『弟』だった。自身とて、少なくとも――やれる限りでは足掻き切れた筈だ。
「……蛍。蛍。思えば遠くまできたものよ」
 浅き夢は最期になろう戦に赴く己に蛍がくれた手向けだろうかと考えた。
「分かっておる。このように堕ちて、このような無様を愛する女なぞようおるまいな。しかし――」
 ――この期に及んでも長胤は蛍の愛がそこにある事を確信している。

 ああ。麻呂と共に生きて欲しい。果ての先まで、あの燃える太陽のようにこの月を照らして欲しい――

 ――お望みのままに。蛍は、旦那様の蛍なのですから

 ……彼女は間違いなく、そう約束してくれたから。




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