PandoraPartyProject
Nemo fortunam jure accusat.
見上げれば雲1つも無い青。飲み込まれてしそうなその色に手を伸ばしてバルコニーから危うく転落しかけてから三日。この所、窓にさえ近付かせて貰えない日々が続いている。
今日は庭園で茶会が開かれると聞いていたのに参加を禁じられて部屋で謹慎しなくてはならないなんて母も過保護だ。過保護の『過』と言う字を十個並べても良いくらいである。
理由など明確で。この国――レガド・イルシオンには王子は一人しか居ない。つまり、あの日、バルコニーから転落してしまっていたならば危うく後継者が居なくなる所だったのだ。
少しは王子としての自覚を持ちなさいと家庭教師以外と会うことを禁じられて三日目。そろそろ飽き飽きしてくるのも丁度、三日目である。
メイド達の目を盗んでこっそりと部屋から抜け出した。広い廊下は伽藍堂で、母のサロンの給仕に人が割かれているのだろう。
レガド・イルシオンの王城は10歳になったばかりの王子にとっては広すぎる場所であるが、外に出るくらいはお手の物だった。
幼馴染みのシャルロッテに言わせれば「王子はやんちゃ過ぎるのです」との事だ。そも、貴族令嬢でありながら近衛騎士を輩出するレーヌ家の令嬢にまでそう言われてしまうのだから『王子』――幻想王国王太子カインの威厳に関わりそうなものだが……その物言いが許される程度には彼は『やんちゃ』であった。
表階段を使わずに敢て人気の無い部屋を選ぶ。二階のバルコニーにこっそりと飛び出して、目の前に存在した樹へと一気に乗り移る。
よし、此の儘、下がれば――
「どなた?」
カインは肩を竦めてそろそろと眼窩を見遣る。樹の根元には涙を浮かべた一人の少女が立っていた。長く伸ばした銀の髪に胡桃のような丸い眸。
――着用しているドレスは少しは古びているが趣味は悪くない。うん、76点。何よりも、顔立ちが素晴らしい。少しくらいドレスのセンスが悪くても許容できそうだ。
カインが其処まで考えた時、ついつい枝から手を離したのは不運だっただけだ。別に令嬢の上に落ちたかったわけではない。
支えを失った体が勢いよく樹の根元にへ向かって投げ出される。カインは「終わった、お母様に怒られる」とぼんやりと考えていた――が、どうやら10歳での終焉は訪れなかったようである。
「ッ――」
「お兄様!!」
先程聞いた、小鳥のさえずりのような美しい少女の声音が鋭く響く。カインはゆっくりと視線を下ろせば下敷きになっているのは令嬢と同じ銀の髪だ。
長く伸ばした其れを一括りにして居るが手入れが行き届いた銀髪は美しい。陽の光を受けてきらきらと輝いて見えている。――うん、顔は知らないけど髪の毛だけなら80点。
「あ、あなた! 何時まで乗っていらっしゃるの!?
どいて下さいませ。ああ、お兄様! お怪我はありませんか? ど、何処の誰かは分かりませんけれど、樹から飛び降りてくるなんて!」
『76点』が怒りにかんばせを染めてずんずんと迫ってきた。表情がころころと変わるところは愛らしいが仮にもカインは王子である。
つまり――そこまで烈火の如く叱ってくるのは『お母様』こと王妃殿下だけだったのである。
「ご、ごめんなッ……ごべんなざいいいいいい……」
令嬢の勢いに思わず号泣し始めたカインは形振り構っては居られなかった。勢いよく涙を流し続けるカインの尻の下から「一先ず、どいて頂いてもよいですか……」と声が聞こえたのはそれから暫くの後。
「申し訳御座いません! 王子殿下とは露知らず……どうかお許し頂ければ」
王妃のサロンで、泣きべそをかいて目を真っ赤にしたカインの手を引いて『髪の毛だけ80点』と言われた少年が王妃に頭を下げている。
ぎょっとした王妃とその傍らで談笑を行っていた銀髪の女――其れが80点と76点の母なのだろう――は慌て拗ね返った娘の肩を掴む。
「ベ、ベルナール……マルガレータが王子殿下に何かしたのですか!?」
「母上。その……樹上から王子殿下が降って来て、慌てて受け止めて差し上げたのですがタイミング悪く私が下敷きに……。
其れを見かねたマルガレータが王子殿下を叱り付けてしまいまして。それで……王子殿下が号泣を……」
しどろもどろになりながら説明した少年――ベルナール・フォン・ミーミルンドの言葉に王妃は目を剥いて王子の首根っこを掴み執事へと『裏へ連れて行きなさい』と叫ぶ。
ベルナールとマルガレータには着席を促し王妃はにこやかに腰掛ける。周囲には貴族の令息や婦人が多数いたが、王妃の剣幕に何も言えない儘の時間が過ぎ去ったのだった――
「と、言う事があったのは覚えていらっしゃいますか? カイン殿下」
「い、いやあ……どうだったか……」
あの日、76点と呼ばれた少女――マルガレータ・フォン・ミーミルンドとの茶会の席でカインはそっと目線を逸らした。
憶えて居ない訳がないだろう。あの後、母は怒り狂い更なる謹慎を言い渡したのだ。マルガレータの代わりにベルナールが受け止めてくれたから良かったものの、彼女の兄が気付かず令嬢の上に転がり落ちてれば二人とも傷を負っていた所だ。受け止めてくれたのが男で良かった、と何度も繰り返す母に何度も謝り倒したのだ。
「ふふ、そのお陰で王子殿下を叱り飛ばす女として社交界にデビューする前から名を馳せてしまったではありませんか」
「い、いや、でも……君がミーミルンドの令嬢だからだろう。ほら、王家の相談役……叡智のミーミルンドだからだ……」
「まあ。その役目はわたくしではありませんわよ。カイン殿下の叡智の泉は兄ですもの」
ねえ、とマルガレータが振り仰げば、騎士見習いとして王宮に出入りしているレーヌ家の令嬢シャルロッテと談笑を楽しんでいたベルナールが「そうなる日が来るならば光栄ですね」と輝かんばかりの笑みを浮かべている――少し気に食わない。ほら、見てみろ。シャルロッテなんて桃色の頬をして喜んで居るではないか! 世間の令嬢の中では『月の化身』なんて言われているんだぞ、あの男!
「やあ、ベルナール。君はまるで月のようだね」
「いきなりお褒め頂き有難うございます。
そういえば、殿下はご婚約の話はどうなさいましたか? 元老院から何度も何度も打診が来ているのでしょう」
「う、む……まあ、フィッツバルディ所縁の娘らは余り興味が無くてな……アーベントロートは黙しているし、バルツァーレクもその度に舞踏会をと提案してくる。
面倒なんだ。そもそも、僕はこうやってマルガレータやシャルロッテ、ベルナールと茶をしながら過ごしている方が楽で――」
「本性がばれてるから」
「マルガレータ!」
可笑しそうに笑ったマルガレータにカインは唇を尖らせた。世間では賢王フォルデルマン二世の一人息子として期待が高まっている王太子カインではあるが、勉学は苦手である。興味があるのは絵物語や劇場、華やかな催しばかりである。つまり、マルガレータに言わせれば「カイン殿下っておばかさんですもの」である。
彼女がここまであけすけに物を言うのは貴族令嬢らしくない性格である事や、木の上から落ちてきた一件があるからである。1年もの間交友があればこうもなるのか、それともマルガレータが気易いだけなのかは定かではない。
「それより、ベルナール。その……此度は、」
「ああ、いえ。マルガレータも今日は楽しそうにしてますから何も触れないで下さい」
シャルロッテは「お茶をお取り替えしましょうか」と室内を後にする。ベルナール・フォン・ミーミルンド『男爵』は16歳にして家督を継いだ。
彼の両親が不運事故により亡くなったからだ。カインは直ぐさまにミーミルンド兄妹を王城へと呼び自身の友人である事を世間にアピールしたのだが――其れが悪かったのだろうか。
ミーミルンド家周辺から王子と交友関係にあり、少々癖の強いマルガレータを王太子妃候補にという声が聞こえだしたのだ。
「ベルナールもマルガレータも、気にしないでくれ。マルガレータみたいな令嬢を嫁にして手懐けるなど僕には無理だろう?」
「え? カイン殿下は私がお嫌いなのですか?」
「そ、そうではなく」
「わたくしだってお断りです。だって、まだ木から落ちてきそうですもの」
「マルガレータ!!!!」
12歳になった頃には彼女が王太子妃に確定するのでは亡いかという噂も飛び交っていた。幼くして爵位を継いだベルナールも上手くやっているらしい。
もしも、マルガレータを婚約者に据えればこの幸福な関係が続いていくのだろうか。妃の兄としてミーミルンド家も嘗ての『王の頭脳』として宰相の座に就くだろう。
幼い頃から交友を続けてきた二人だ。
……少しばかり『癖の強い女』だがマルガレータは美しい。成長するにつれて76点ではなく92点くらいにはなった。後の8点は照れ隠しだ。
申し分内ほどの美しさ。シャルロッテに聞いてみれば「とてもお美しいと思います」と彼女も臆面も無く宣言してくれる。
ベルナールも素晴らしい友人だ。頭も良く、優しい。奴隷達を家族のように慈しむミーミルンドを馬鹿にする声も多いが僕はそうは思わない。素晴らしいじゃないか。
「よし」
カインはすくりと立ち上がってからベルナールと名を呼んだ。面食らった彼がぱちりとマルガレータとそっくりの眸を丸くした事が可笑しくてカインは思わず吹き出した。
ああ、彼等とならば屹度笑いの絶えない毎日が待っている。そんな幸福な王様になれるかも知れないんだ! なんて素晴らしいのか。
「何時か、僕が王になったら。僕が誤ったら君は殴ってでも僕を連れ戻してくれ」
「何を突然」
「君が間違ったことをするわけがないんだから。そうだろう、叡智のミーミルンド。
だから、僕が王になったら君が僕を支えるんだ! 約束だぞ。僕は屹度素晴らしい王になるんだから!」
「ええ? カイン殿下が素晴らしく? お兄様は素晴らしいですけれども」
「マルガレータ!!!」
うん、ありかも知れない。15歳になった頃に婚約をさっさと受入れてベルナールとも義理の兄弟になればいい。それで全て上手くいくはずだ!
煌びやかな王宮舞踏会に訪れたマルガレータは美しかった。誰が見ても彼女は月の女神と謳われる美貌をシンプルなドレスで引き立てた素晴らしい令嬢であった。
生憎だがベルナールは忙しくしており領地を離れられなかったらしい。
15歳になった僕――僕とマルガレータは同い年だ。だから気が合ったのかも知れない――は王太子妃を決定するようにと国王陛下からも申し伝えられていた。
マルガレータを内定させるつもりだと国王陛下と王妃殿下に伝えた際には、本人に了承をとりなさいときつく申し伝えられたものである。
(いや、普通に僕が結婚しようと言えばマルガレータは喜ぶだろ。なんたって僕は王太子だぞ?)
意気揚々とマルガレータへと近付いたが彼女はぎこちなく笑うだけ、普段のような軽口などは聞こえやしない。
――思えば、その時気付いておけば良かったのだ。
舞踏会も終わりに近付いてから、やっと彼女と踊る機会がやって来た。此れまで妃候補達とダンスを続けた事でカインも疲弊していたが、マルガレータとはどうしても踊っておかねばならない。
そして、了承を取れば良い。『素晴らしい人生計画』を伝えて、皆で幸せになるのだ。
そっと手を取れば思ったよりも小さな掌が重ねられた。月の女神とも謳われた彼女は至近距離で見れば、見慣れているはずなのにどうしてか胸が高鳴った。
「そうか、化粧をしているのか」
「何時もしてますけど……」
「変えただろう? 見違えたよ。美しい」
「ふふ、其れは有難うございます。どうして私と踊ろうと?」
「それは――マルガレータ、君を妃にと思って。了承がとれたら直ぐにでも披露したかったのだが……」
回されていた腕に力が込められた。少しばかりリズムがズレたか。
「マルガレータ?」
「……いいえ。その……カイン殿下」
「な、なんだ?」
見上げてくる彼女の眸が、揺らいでいる。胡桃のような丸い眸。あの日、木の上から見詰めたときと同じような、それよりも距離が近い愛らしい眸がじいと見詰めている。
「もしも、わたくしに何かがあったなら……お兄様を宜しくお願い致します。
宰相になんてしなくっていいのです。きっと、さみしがり屋だから、カイン殿下が沢山構ってあげなくっちゃダメですよ?」
「どういうことだ?」
「うふふ、わたくしと結婚するつもりなら、ですわ。覚えていらして下さいませ。わたくしの大切な殿下」
ダンスが終わり離れて行くマルガレータを引き留められないまま、その日は閉会となった。
その翌朝のことだった。マルガレータが『馬車の事故で亡くなった』事を伝えられたのは。
直ぐに使いを出したがベルナールとは連絡が取れず、三大貴族が彼が動くよりも早く「マルガレータは事故で亡くなった」と宣言した異質な一件を以て彼の家との縁は切れた。
……今でも思い出せる。
あの日の彼女は屹度、何かに追われていたのだ。
誰も巻き込まない様に、その予感を感じてからは兄さえも遠ざけて。一人で行動していたのだろう。
ああ、気づけなかった僕は――