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三周年記念SS『それでも夜明けに陽は昇る』
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『それでも夜明けに陽は昇る』
世界は回る。悲劇があろうと喜劇があろうと、涙も笑顔も夜に呑み込んで、やがて昇る太陽が闇を洗い流して。その繰り返しこそを、世界という。
立ち止まっても、じっとして、変わりなく過ごそうとしても――繰り返す昼夜と、移ろいゆく季節が、それを許してはくれない。
今日もまた、朝日が昇り、窓から日が差す。
陽光がカーテンの隙間から流れ込んで彼の膚を舐めた。瞼が動き、ゆるりと開く。
「……朝か」
ゆっくりと身を起こす。枕元の眼鏡を取り、片手でするりとかけてベッドを降りた。
部屋は決して温暖とは言えない。廃村の襤褸屋だ、隙間風が入る。夏は暑く冬は寒いというなんとも厳しい環境だったが、彼は全くそれに頓着した様子を見せない。
窓に歩み寄り、カーテンを開いて窓を開ける。初冬の清涼な空気が部屋に吹き込んだ。
丘の上に過日の記憶を残す廃村。住むものもない、この朽ちた――時が止まってしまったような村の中で、彼だけがひっそりと息付いている。
特異運命座標、回言 世界(p3p007315)。人は独りで生きてはいけぬと世の詩人が歌うのを鼻で笑うように、彼は『人は独りで生きていける』と嘯いて久しい。
一聴しただけならばなるほど、強がりと笑われるかも知れぬこと。けれど彼は、心底からそう思っているのだ。
冴えた朝の空気を二度ほど深く吸い、吐いて、伸びを一つ。
「――働くか」
窓を閉め、世界は窓際から踵を返した。
身支度を調え階下に降りる。
襤褸屋と言えども、最低限繕ってあるこの建物は、世界の住居兼職場である。
テーブルと棚を所狭しと並べ、その上に陳列するのは様々な商品。それも、街の雑貨屋でごく普通に見かけるようなものばかりだ。年頃の少女が好みそうな廉価なアクセサリーや小物、マグカップにガラス細工、傘にアートケース、スコップに鉢、クッキーやチョコレートなどの日持ちのする菓子類などなど――
値付けも普通も普通、丘の下にある町にある雑貨屋とほぼ同等だ。この店特有の特価であるとか、特殊な商品であるとか、或いはここでしか手に入らない魔法の逸品であるとか――
そうしたものは一切ない。ごくごく普通の品揃えをした雑貨屋。
それが、世界の営む雑貨屋である。
世界はテーブルの間を抜け、ドアの鍵を開けて開いた。店の表に出した掛け看板を、『Closed』から『Open』にひっくり返す。
視界の隅に、ちらりと動く何か。
「客は来ないのに、お前らは毎日来るんだから、まったくままならないもんだよな」
肩を竦める世界の前にぴょこぴょこと飛びだしてくるのは白いもこもこの兎たちだ。初秋から晩冬にかけて活発に活動するスノーラビットという種の――厳密に言えば魔物である。今や訪れる人もなく静謐を保つこの廃村は、人の手が及ばぬことで動物と魔物と精霊が生を謳歌する秘境となった。唯一住まう世界も、彼らと共存して生きている。
共存と言っても簡単だ。自分から事を構えない、互いに悪干渉しない、――攻撃してくるならば、力の差を理解させ追い払う。その程度でいい。――もっとも、それが出来ないから普通の人間と魔物は相争うのだが。
世界はポケットに入れていた袋からいくつかの種子を取り出し、ぽいと兎たちに放ってやった。我先にと種を追いかけて群がり転げるスノーラビットたちに横目をやりながら、店の前を軽く掃き清め、店内に戻る。
掛け看板をひっくり返しても、人が来るわけではないと分かっているのに、けれど世界がそれをやめることはない。朝が来ればOpenに。夜が来ればClosedに。まるでそれは回り続ける、このセカイそのもののよう。
世界は歩いてきたコースをそのまま辿ってカウンターに戻ると、そのまま奥のキッチンに入った。設えたアルコール・ランプに火を点し、ガラスポットに湯を沸かす。その間にティーポットに茶葉を入れた。気がつけば茶葉のストックも随分と少なくなっている。これは、明日にでも買い物に行かなければならないかも知れない。
湯を沸かす間に売り場を見て回り、作ってから少々日が経ってしまった茶菓子を掻き集めてくる。涼やかな細面からはそうは見えないが、彼は街に行けば寄り道をして甘味を嗜む甘党だ。クッキーの袋をぽんぽんとジャグリングしながら、キッチンに戻る。在庫リストにチェックを入れて、持ってきたクッキーの分を消し込む頃には湯が沸いている。
世界は沸いたガラスポットからティーポットへ湯を注ぐ。待つこと三分、葉を漉しながらマグカップに注げば、香りかぐわしい湯気が立った。
シュガーポットから角砂糖を幾つかつまみ上げ、紅茶に沈めて掻き混ぜると、ソーサーもなしでカップをそのまま持ち上げた。
カウンターへ戻り、スツールに腰掛けると、朝食代わりに開けたクッキーと一緒に紅茶を嗜む。相も変わらずドアベルは鳴らず、表では、精霊の歌声が風に乗り、スノーラビットが駆け回っている。
呆れるほどに長閑で、静かだ。今日は流れ魔獣が人の匂いを嗅ぎつけて、襲ってくるようなこともない。――この辺りの魔物はだいたいがこの雑貨屋に棲む奇矯な人間のことを――そしてその実力を知っている為に荒事にはならないが、流れの魔物とあればまた話が別である。
精霊の声に耳を傾けながら、世界はクッキーをかじり、下手をしたら菓子より甘ったるい紅茶をもう一口。
――ああ、今この瞬間にも、どこかで誰かが泣いているかも知れないし、どこかで誰かが死んでいるかも知れない。けれどそれに心を痛め奔走するようなことはしないし、したくない。ただつつましく、この手の届く範囲の平穏を良しとし、静かに暮らす。甘い紅茶と甘い菓子だけを供として、今日も独り、来るはずのない客を待つ。
これが、回言 世界の過ごす日常だ。
主人公になどなれなくていい。昔に比べれば今は、裏切りに遭うのも、傷つくのも怖くはなくなった。だからといって、進んでそうされたいわけでもない。いつしか彼は、回るセカイを定点から観測する衛星のように、この時の止まった廃墟に隠棲した。
今日も、明日も、明後日も。彼はこの小さな雑貨屋の窓から、季節が移ろうのを見つめている。
「――そうだな。明日は町まで脚を伸ばそうか。ついでにミルクレープでも食べにいこう」
シュガーポットの足りない砂糖と、そろそろ切れそうな茶葉と……その内『彼女』がまた来たときに備えて、珈琲豆の予備でも。
明日の予定に思いを馳せながら、世界は埃を被ったレジを指でなぞった。
次にこいつが口を開けるのは、一体いつのことになるのだろうか――それこそ、回るセカイのその涯てのことなのかも知れない。