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スリー・トライザードの一周年記念SS
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●──Whose story?
一度捨てたものが、また欲しくなる。
一度捨てたものを捨てなければよかったと。そう後悔したことはないだろうか?
そんなものは自業自得だと嘲笑う者もいるだろう。
ただ手元に置いておけばよかっただけではないか、と。
──まったくもってその通りだ。
そう、捨てなければよかっただけの話なのだ。ただそれだけで、未来は大きく変わったかもしれない。
しかしそれは、別の可能性をも孕んでいる。
何故、捨てておかなかったのかと悔やむかもしれない。むしろあの時捨ててよかったと、過去の自分を称賛することもあるかもしれない。
そして、彼は──棄てざるを得かったのだ。
これは遥か昔に人を棄てた男の成れの果て。
スリー・トライザード(p3p000987)……ただの不死者の、日常の一幕である。
●──Heart
長く、終わりの見えない地下への階段。誰も知らない、隠されたその場所を歩く、一人の男の姿がある。
──昏い。
彼の見た目を一言で表現するならば、それほどまでに適切な言葉は他に無いだろう。
黒系統で統一された衣装、落ち着き払った物腰と表情。コツリ、コツリと周囲に響く靴の音からでさえも、その知性を微かに感じ取ることができる。
混沌なる世界に召喚されてから、早くも一年。
人間にとってはそれなりに長く、彼にとっては短い時間ではあるが。一年あれば、生活が整うのには十分な期間だ。
階段の先に現れたのは、扉。
練達の技術によって造られた硬く頑丈なその扉には、彼の知る限りのあらゆる術式が施されている。それは、その場所を守るために。中にあるものを誰にも見られたくないが故。
重そうな扉は、主である彼が手をかければすんなりと道を開く。
幻想における生活拠点である、住居の中。そこに隠された階段を降り切った先にある、更に隠された部屋。彼以外の何人たりとも侵入を許さない、奇妙な空間。
そこにあるのは、机と椅子。その周囲に並べられた、幾つかの書架。小さな書斎である。靴音を響かせながら部屋に足を踏み入れた彼は、迷いなく一冊の本を書架から抜き取った。
背表紙に指を滑らせ、表紙に手を掛け……ふるり、と。震えた。
何かに恐怖するように。何かに、憑り付くれたかのように。
彼の手ではない。震えたのは、彼の手の中にあるその書物。
──禁書、である。
知識のある者が見渡せば分かるかもしれない。その小さな書斎に敷き詰められた本。その全てがただの書物ではなく、禁忌に指定されかねない危険な書の数々であることに。
椅子に静かに腰掛けると、表紙を撫でる動きをそのままにページを開く。
そこに在る知識を我が物にする為に。年甲斐もなく、それだけはまだ人間である「心」を躍らせながら。
●──He was turned to greed.
スリーは、知識が好きだ。愛し、そして求めている。
彼は知識に魅入られ、知識に魅せられた。
その魅力は何物にも代え難く……彼の心は、その虜になってしまった。
スリーは、現代日本からの転生者だった。
転生した先は異世界。そこは日本では“ファンタジー”と呼ばれる世界。
現代日本とは大きく異なる様々な文化。魔法、生活。その場所が辿って来た歴史。転生した先のその世界の全てが、彼の心を鷲掴みにするには十分過ぎるものだった。
その場所は、どうしようもなく彼の知識欲を刺激した。
──この世界の全てを理解したい。
そう思うのは、それほど不思議なことではなかったのだろう。ならば、それを成すにはどうするか?
世界を廻り、全てを見て聞いて回れば、それは集められるだろう。しかし。
しかし、だ。
──知識を集めきるその時まで、人間は生きていられるのか?
転生したとしても、所詮は人間の身体。寿命という枷は外れることはない。
時間が足りない。ただ圧倒的に、絶望的に、確定的に。人間という種族の寿命……100年という月日。それは余りにも酷で……彼にとっては、短すぎたのだ。
人類にとって絶対の制限である“寿命”
それは、彼の欲を諦める理由には十分だったはずだ。しかし。
しかし、だ。
──スリーは諦めたのか?
──否。
その世界には、あったのだ。前世である現代日本では人類が成し得なかった「寿命」を超越する為の知恵と技術……魔法が。
彼は自身を「不死者」と定め、永遠の時を生きることを選んだ。
ただそれは、知識の蒐集のため。己が欲するがままに、世界の知識を得るために。
●──Are you human?
不死者として永い時を経たスリーは、人間だった時とは変わってしまった。
価値観も、倫理観も。命に対して抱く思いさえも。
──知識とは、其れ即ち宝である。
それはどんな財にも負けぬ輝きを持ち、何者にも侵されることはない。だからこそ「知識」というものは……例え変わってしまったとしても、彼を虜にしてやまないのだ。
まだ知らないことがある。まだ識り得ていないものがある。
新しい出会いと考察、発見。そこから生み出される結論も、月日と共に変化する。
その時、ふっと。決められた時刻を告げるかのように、綴られた文字を照らしていた光が、消えた。
「……あぁ」
先の見えない闇の中で、彼は呼吸など必要としない己の体を動かした。森の中でそうするように息を吸い、吐き出す。
……なるほど。ランプに火を灯しておけるだけの酸素が、この部屋にはもう無いのか。
彼のギフトは食事も、睡眠も、呼吸さえも必要ないという優れものだ。火の中であろうが水の中であろうが。彼は空腹や周囲の環境によって死ぬことが無い。
もう一度、人の身であれば致命的なその空気の中で大きく、ゆっくりと息を吸い込む。
人の身としての時間の感覚など、とうの昔に忘れてしまった。それは自身の責任だ。
知識の為に「人間」というものを自ら捨てたのだから。
「…………はは」
彼の口の端が、小さく歪む。小さく肩を震わせると同時にその口から、苦笑が漏れた。
ランプが消えなければ、時間が経ったことにさえ気付けない。睡眠を取ることも、何かを口にすることも忘れ、ただただ今日の陽が沈むのみ。ひやりと心に、冷たい刃が触れたようだった。
──私はまだ、恐れているのか?
自ら人を辞めたというのに。まだ己の精神の中にある「人」を棄て切ることを、
この今になって、まだ拒んでいるとでもいうのだろうか。
「……皮肉なものだ」
彼の自嘲交じりの苦笑と小さな独白は、暗闇へと溶けて消える。
誰も、そんな彼を嗤うことはない。それをするとすれば、彼自身のみ。
開いた時と同じように、そっと本を閉じた。それが癖なのだろう、指先で背表紙をすらりと撫ぜる。
変わらない日常。此処で本を読むことが、この世界での彼の日課だ。
「……そろそろ、行くとしようか」
深く腰掛けていた椅子から音もたてずに立ち上がると、ゆったりとした足取りで書架に歩み寄る。
戻した本はまるで機械がそうしたかのように。寸分違わず、元にあった位置へと。
──私はもう、人間ではない。
彼の肉体はもう、人間ではない。
──しかし私の心はまだ、人間のそれだ。
知識に対する欲も。他者と接すれば、自然と休まる自身の心も。まだ、人間を……ヒトを残している。
コツリ、コツリ。離れていく主の、それもまた来る時とまったく変わらない足音。
部屋はまた、元あった静寂に包まれる。
此処は混沌世界。
彼もまた、この世界に囚われた──人間を棄て切れない、1人の孤独な蒐集者なのだ。