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志屍 瑠璃の七志野言子による三周年記念SS
イラストSS
柔らかな朝日がカーテンを撫でていた。
穏やかな予感に『遺言代筆業』志屍 瑠璃(p3p000416)の頬が緩む。
今日は闇市巡りに繰り出すのだ。
ローレットの依頼を終えたばかりで懐は温かい。市の周りに立った屋台で朝食を取るのもいいだろう。
以前食べた粥の屋台は立っているだろうか。皺くちゃの老婆がかき混ぜる粥は鳥と野菜の滋味が凝縮されて胃の底がぽかぽかと温かくなる心地がしたものだ。
あれを朝食にできれば言う事はない。
珍しい屋台が立っていればそれも摘まんでいこう。
なにしろ闇市といえば人の坩堝。行くたびに違った商品を揃えるように、それ目当てに集まる者を狙った屋台もまた行くたびに色合いが違うのだ。
まだ見ぬ商品と美味に胸を高鳴らせながら瑠璃は着物の袖に腕を通した。
ああ、おおよそ1時間ほど前まではそう思っていたのだ。
瑠璃は男の腕をひねり上げながらひっそりと息を吐いた。筋は傷つけぬように、しかし抵抗は許さぬように関節を締め上げるのは忍びの基本的な業だ。瑠璃は能力の性質上あまり使うことはなかったが、振り上げられた拳が地面にへたり込む子供に命中する前に止めるのはこれくらい単純なのが丁度いい。
「失礼いたします。ですが、それはやり過ぎでは?」
仲裁の言葉を投げかけながらも瑠璃の頭の片隅では理性による自分自身への叱責が続いている。
お節介め。これでもうゆっくり出来る休日はなくなった。
理性の指摘は正しい。自分たちを囲むその他大勢の様に痛ましげな視線を子供に向けて、それで通り過ぎてしまえばよかったのだ。
しかし、すれ違う寸前に怯えた子供と目が合ってしまえば、それからはもうどうすることも出来ず、気が付いたら男の腕をひねり上げてしまっていた。
「クソッ!部外者の癖にデカい顔をするんじゃねぇよ!」
この男の言う事も正しい。
瑠璃は一切合切部外者だ。子供との面識も、男との面識もありはしない。
ただただ、子供が殴られる瞬間に出くわし割って入った。それだけだ。
「このガキが俺の商品を台無しにしやがった!
売り上げがなくなれば俺は首を括るしかねぇんだぞ!」
だがそれは本当だろうか。
ちらと、瑠璃が視線を地面に走らせれば周りに散らばるのは二束三文のガラクタばかり。それどころか、1Gでも買い手のつかないような曰くつきのアイテムさえ見える。
詐欺師か、押し売りを得意とする商人の類か。恐らくは後者であろうと瑠璃は見当をつけた。
「ご、ごめんなさい。僕が台にぶつかっちゃったから……」
しかし、地面にへたり込んだままでいる子供はそうは思わなかったらしい。
素直に顔を青くさせて、唇を震わせながら謝罪の言葉を述べている。
瑠璃は苦い唾をのみ込んだ。こういう時に謝ってしまうのは悪手だ。
たとえ事故であったとしても、片方が謝罪してしまえば責任を擦り付けられるように……否、この男にとってはそれよりもっと簡単な事に違いない。
「へっへっへ、分かっただろネェちゃん。俺はこいつをよーく躾けて、責任を取らせなきゃ」
「だったら買いますよ」
「あん?」
「私が買えば今日の商売は成功、でしょう?」
男の腕を元に戻し、瑠璃は地面に落ちた商品を示して見せる。
瑠璃の様子に男が不可解そうな声を上げたのも一瞬の事。にぃと、欲望にまみれた笑みを作ると男は「そぉかい」と言った。
「子供の為に金を出そうなんて泣けるねぇ。だが、こちとら商売だ。全部まとめて5000ゴールド払って貰おうじゃねぇか」
売値は全て合わせても1500ゴールドも行きそうにない癖に!
叫びかかった台詞を飲み込んで、瑠璃は極力何でも無さそうに支払った。状況を見た瞬間からこのパターンは予想していたものだ。幸い金はある。闇市巡りの為の軍資金で決して安い額ではないが、事を早く済ませなければあの純真そうな子供は進んで自分の身を売り出しそうな気配があった。
「ありがとう、お姉さん。
あのね、これ僕の宝物なの。だけどお姉さんにあげるね」
嬉々として男がガラクタ(商品)を差し出した後、瑠璃に子供が小さなものを差し出してきた。
ガラス玉だ。中にひびが入っている粗悪なものだが、陽の光に透かせばひびに光が反射してキラキラと輝いている。
「いいんですか?」
「うん、助けてくれてありがとう」
子供のあどけない笑顔に、瑠璃もまた頬を緩め――。
「おい! 油売ってねぇで帰るぞ!」
「はーい! お父さん、待ってよぉ!」
先ほどまで責任が云々とか子供を攫って売りかねない勢いだった男が子供に呼びかけて。
「おねーさん! お父さんが首をつらないように助けてくれてありがとうね!」
瑠璃に向かって手を振りながら駆けて行く子供の背中が遠ざかって。
「……は?」
ああ、つまりあの男は押し売り商人ではなく、詐欺師だったのだと知れたが、それを追いかける気力は今の瑠璃にはなかった。
「何をやってるんでしょうね、私は」
ベンチに座り込んだ瑠璃はぼんやりと空を見上げた。もう時間は昼過ぎを指していた。
手の中には子供からもらった罅入りのビー玉だけが転がっている。
男に押し売りされた商品はやはり1500ゴールドにもならなくて、どうでもよくなって全部売り飛ばしてしまった。
闇市巡りしようにも元手もないし、心の中は怒りも悲しみもなく虚無だけがぽっかりと浮かんでいる。
「お嬢さん、腹が減っておいでだね」
ずい、と眼前に差し出された椀に意識が現実に引き戻される。
「婆は腹を減らした子に飯をやるのが生き甲斐でねぇ」
いつの間にか皺くちゃの老婆が自分に粥を差し出していた。息をすれば煮た米の甘い匂いがして、冷たくなった心に生きている気持ちが戻ってくる。
押し付けられるように受け取った椀は暖かくて、今更のように何も食べていない事を思い出せば、腹も待ちかねたとばかりにくぅとなった。
「ヒェヒェヒェ、少しだけまともな顔になったね」
「ありがとうございます。お代は……」
「いらないよぉ」
老婆は口をすぼめて笑う。
「さぁさ、冷めてしまわない内にお食べ。冷めちまった粥なんて糊みたいなもんさ」
勧められるままに匙で掬って一口食べれば美味かった。米の滋味だとか、しっかりとられた鳥の出汁だとか、そういうものを思う前に、ただ美味いと感じる。
自覚はあまり無かったが、疲弊していたのだろう。飲み込むごとに腹の底から暖かさが沸き上がり、心だけでなく体も冷え切っていたのだと、そこでやっと瑠璃は自覚した。
(闇市巡りは台無しになりましたけど、お粥だけは食べられましたね)
朝食にするという願いは叶わなかったが、空腹と言うスパイスを得られた事は悪くなかったのかもしれない。
空になったお椀を見て、瑠璃は小さく口の端を上げ、立ち上がった。
もう一度、あの老婆にお礼を言おう。それからどうしようか。まだ日は高い、今からでも休日を再開しよう。
挿絵情報
- 公認設定『性格・性質』