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傭兵での一幕
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どこからか、いい匂いがする。
これは肉……それからこの時期、商人たちがよく運んでいるキノコの香りだ。バターの香ばしい匂いもするから、付け合わせに炒めているのだろう。それにオニオンスープ、何に使われてるかは分からないがガーリックも……。
ひんやりとした空気を割って、流れ込んでくる温かで食欲を唆るそれらに、思考より先に体が反応する。情けない鳴き声をあげそうになる胃袋を、服の上からぐっと押さえ込んだ……が、
『くるるる』
結局、鳴る。
持ち主の言うことなんてちっとも聞きやしない腹を忌々しく思えど、腹が減ってるもんは減ってるんだから仕方がない。
喉元まで湧いてきた溜息を、唾液と一緒にぐっと飲み込む。
(少なくとも、「アイツ」のとこにいた時は、食うには困らなかったな……)
そんなことを考えそうになって、黒雪豹の青年は首を左右に振った。元はと言えば、自分がこうして空腹なのは、そもそもアイツのせいなのだと言い聞かせる。
(例え、このまま飢え死にするとしても俺は絶対に戻らねえ)
そっとその場を離れ、薄汚れた路地裏へと駆け込む。こんなところで腹を鳴らしてるところを見られたら、また、誰に何と揶揄されるか分かったものではない――
これは、特異運命点「アルク・ロード」(p3p001865)が、まだラサ傭兵商会連合にいた頃の一幕。
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『悪食の嘲笑』――それが、アルクの師で「あった」人物の二つ名だ。
師はラサの一部の傭兵たちの間ではよく知られていた。悪名高かったと言い換えることもできるだろう。
だから、アルクのことを知る者も少なくはなかった。……もっともそれは、アルク自身と言うよりは、ほとんど『悪食の嘲笑』の弟子という形での知名度だったが。
アルクにとっては、不本意と言うだけでは言葉が足りなかっただろう。
自ら疎み、捨てたはずの名が、関係が、振り払おうとしても周囲からベタベタと貼り付けられるのだ。
『悪食の飼いネコ』
それは彼が捨てたはずの蔑称で、そして、ラサでの彼の通り名だった。
(好きにすればいい……)
時には露骨に指さして、また別の場所ではわざと聞こえるように揶揄られながら、アルクは内心で毒づいた。
「アルク・ロード」を名乗り始めたものの、その名で呼ばれることは、仕事以外ではほとんどなかった。だが、それが一体なんだと言うのだ。
(あんなクソみたいなヤツらとつるむなんざ、こっちから願い下げだ)
苛立たしい。
結局はクソ師匠の影響から逃れられないのが。
侮蔑のことだけではない。
二度とアイツの元には戻らないと思いながら、『悪食』の名を頼りに舞い込むデカい依頼を引き受けなければ、碌に稼ぐこともできないこの状況が。
今の自分は雪というより、炭のようだ。
じりじりと日増しに強くなる焦燥感に焦がされながら、けれど一人で抱える以外にその感情をどうすればいいのか……アルクには知る術がなかった。
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その男に初めて出会ったのは、ある隊商の護衛任務のときだった。
正確には、会う前からその存在は噂で聞いていた。決して、いい噂ではなかったが……例えば、「生かしておくはずだった捕虜を拷問で殺した」だとか、「故郷で罪を犯し、逃亡してきた犯罪者」だとか、とかく物騒な噂が絶えない男だ。
(……よりにもよって、同じ部隊かよ)
「ダレン・アドリス」(p3p002854)――その姿は、一度見たら忘れる者はいないだろう。
岩山を人間の形にしたらこうなるだろうかと思わせる、暗灰色の肌、ぎらつく赤い目、長身に加え並みのことではびくともしないだろうと一目で分かる隆々とした体躯。
怖いわけではないと、心の中で言い訳しながらも、ダレンの耳と尻尾は斜め下に硬直する。
(いや、別に関わる必要はねえんだ。任務さえ終われば、どうせもう会うことはねえんだ)
ラサで傭兵を始めてからというもの、いつだってそうだった。
今回も同じだ。
仲間なんて、仕事を片付けるためのただの寄り合いだ。慣れ合う必要はない。
無難に仕事を片付けて、耳障りなことを言われる前に、さっさと離れる。何も問題はないはずだ……それで。
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(と、思ってたのに)
無事に隊商を目的の街へと送り届け、ラサへと戻ってきたアルクの前には、例の男、「ダレン」が道を塞ぐように立っていた。
いや、本人は決して道を塞ごうと思ったのではなく、立っているだけで、勝手に道が塞がってしまったという方が正しいのだが。
「アンタが一体、俺に何の用があるってんだよ?」
――先の任務で恨みを買うようなことはなかった……とは言えない。
モンスターの襲撃を迎え撃つ中で、一人で躍起になって部隊長の指示を聞き逃し、二度ほどダレンに庇われた……気がする。だが、戦闘後に小さい声で謝ったはずだ。聞こえたかどうかは別として。
「……突っ走っちまった件なら、謝っただろ」
声が濁る。
そのことについては、護衛道中どころか、解散前にも散々隊長から皮肉交じりのお小言をいただいていたのだ。自分の失態が原因とはいえ、正直これ以上の追い打ちは御免被りたかった。
「謝りが足りなかったってんなら、もう一回謝る。悪かった。だから、そこ退いてくれ。腹減ってんだ」
言いながら、相手の横を無理にすり抜けようと、一歩前に出た途端、
「ふむ。やっぱりそうか。そうじゃないかと思ってな」
「はあ?」
その足は、止まる。
見上げた先に、灰色肌の、お世辞にも人相が良いとは言えぬ男の顔。
「俺も腹が減っていてな。一緒にメシでも食いに行かんか? 奢るぞ」
その顔が、僅かにニカリと崩れた。
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「ダレン!」
雪豹が、大股でトントンと巨躯の男に歩み寄る。
「今日はもう依頼の報告も終わったんだろ? 飯食いに行こうぜ」
親指で店のある方角を指しながら、アルクは笑った。
あの日、初めて食事して以来、二人でつるむことが次第に多くなっていた。
最初こそ声を掛けるのも、食事に誘うのもダレンから。アルクは距離を取りがちで、なかなか近づいて来る様子はなかったが、今ではどちらがということもなく。
まるで長年の友のように、お互い気軽に声を掛け合うほど親しくなっていた。
話す内容は他愛もない。
今日の依頼がどうだった。
最近こんなことがあった。
どこそこの料理屋がうまい。
ありふれた、普通の話だ。
けれど、そこにはアルクが疎んでいた悪意の籠った言葉はなく、また、ダレンも決してアルクの触れてほしくない部分に踏み込もうとはしなかった。ほんの些細なことではあるが、アルクにとっては、それが嬉しく、心地好かった。
兄というものがいたら、きっとこんな人物なのだろうと、アルクは思う。
同様に、ダレンも、アルクのどこか放ってはおけないところは、例えるなら弟のようだと感じていた。
ラサのビジネスライクな人間関係、「偏見」に取り囲まれた二人にとって、互いが気の置けない大切な存在であった。
……素直ではない黒い雪豹と、口数が多くない無骨な大男が、ラサの地でそれを打ち明けることは、ついになかったが。
彼らの関係はその後、ダレンが姿を消すことで、一度幕を下ろす。
傭兵として認められ始めた『黒雪』アルクを残して。
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心残りがあった。
優しくしてくれた人に、何も伝えられなかったこと。
心残りがあった。
彼に何も告げずにラサを離れ、郷里に戻って来てしまったこと。
――次に会ったときには……などと夢見てみるが、心の中では互いに「もう会うことはないだろう」と思っていた。
だが、どんな運命の巡り合わせだろうか。
ダレンが姿を晦ましてより五年の月日を経て、二人は幻想国にて再会を果たし、ラサにいた頃と変わらぬ気安さでそれぞれの思いを語り合う。
あの時の自分では言えなかった想いを、今だからこそ。
けれど、それはまた、別の一幕。