イラスト詳細
オルクス・アケディアの一周年記念SS
イラストSS
●現から夢へ
ゆっくりと、意識が沈んでいく。
だんだん現と夢の境界線があいまいになっていく。
これはアケディアの夢──『ベル』という少女だった、過去の話。
●夢、あるいは回想
──痛い。
意識を取り戻したベルが初めに感じたのは痛みだった。
「……痛、い……」
全身が痛い。特に両目が痛くて開けられない。
いや、開けているのかもしれない。けれど、視界には何も映ってこないのだ。
「見えない……痛い……」
王都の片隅にある場所。人はそこを『スラム街』と呼ぶ。
ベルは姉妹のように慕う少女達と共に、その一角へ隠れ住んでいた。『ベル』という名前も少女達が呼んでくる愛称。
しかし皆で暮らしていた場所は、突如として壊された。
混乱、恐怖。それらのせいで何がどうなったか、思い返そうとしても詳しく思い出せない。
ベルは思い出すことをやめ、周りの様子を探った。
視覚を失っているせいだろうか。他の感覚が研ぎ澄まされている気がする。
砂埃の舞う匂い。肌に触れる地面の感触。
遠くの方で人々の怒声が聞こえてくる。それはこの辺りを破壊されていた間も聞こえたもの。
人々の抗争──例えば貴族と住民だとかの──に巻き込まれた、ということだろうか。
しかしその喧騒とは対照的に、この近辺は酷く静かだ。
危害を加えるような人間は周囲にいないと判断したベル。ゆっくり身を起こすと、水のようなものが頬を伝った。
不幸中の幸いと言うべきか、手足に大きな怪我はしていないらしい。恐らく痛いのは打ち身だろう、などと考えながらベルは手で頬を拭う。
手についたそれは、生温くて鉄錆の匂いがした。
「……血」
その立った1文字を呟く間にも新たに血の涙が頬を零れ、地面に置いた手の甲へと落ちる。
ベルは不意に辺りを見回した。
「……ねぇ、みんな?」
声が震える。
共に隠れ住んでいた、姉妹とも呼べる少女達。
隠れ住む場所を破壊され、彼女らはどこにいるのだろうか。生きているのだろうか。
「誰か……誰かいないの?」
応えの声はない。ベルは傍にあった瓦礫らしき物へ手をつき、立ち上がると緩慢に歩き始めた。
1歩、1歩。
瓦礫に、まだ壊れていない壁に手をついて。
それが途切れた先では別の物へ手をついて。
目が見えないベルには空の色を見る事はできず、その移り変わりで時間帯を知る事もできない。
だから途方もなく長かったようなそれは、実際大した時間ではなかっただろう。
ふと、転がっていた何かに躓いてベルは倒れ込んだ。
体を打ち付けた振動が目に響いて激痛が走る。
「う……っ」
震える息を吐きながら激痛をやり過ごし、ベルはのろのろと躓いたものに手を伸ばした。
触れた感触は柔らかくて、人間のよう。
いや、恐らく人間なのだろう。けれど姉妹達ではない。
これは明らかに少女のものではなかった。
「……死んでる」
形状からして腕だろう。冷たくはないものの、生きているとは思えないほど体温が下がっている。
ベルや姉妹達と同じように巻き込まれたのか。それとも別の要因によるものか。
座り込んだベルの膝に、目からパタパタと血が零れ落ちる。
(……寒い)
両目の出血は止まらず、頭もぐらぐらと揺れるようで覚束ない。
──死ぬのだろうか。
──誰も見つけられずに。誰にも見つけてもらえずに。
頭の中に浮かんだソレに、絶望ともいうべき感情が脳内を占めていく。
そんな思いを振り払うように、ベルは声を張り上げた。
「誰か、誰かいないのっ……ねぇ!?」
嫌だ。生きているなら、返事をして。
お願い、誰か応えて──
『…………我を必要とするか?』
聞こえてきた声にベルは振り返った。
けれど一面の黒に塗りつぶされた視界は、その人物を捉えない。
「……誰」
『我は怠惰の眼球という、眼球を模した儀式呪具のオルクス・アケディアだ』
儀式呪具。
自己紹介にしては聞きなれぬ単語にベルは首を傾げる。
「……人間じゃ、ない……?」
『人の形はではないが、己の意思を持っている。対象に願われたことで空中庭園より喚ばれた』
「空中庭園……」
名前の通り、空に浮かぶ庭園だ。
そこには『神託の少女』という存在がおり、特別な運命を背負った人々は世界を超えた先の存在であっても空中庭園へ召喚されるのだという。
空中庭園から来たという事は、目の前にいるであろう儀式呪具もその『特別な運命を背負った者』なのだろう。
そして、願ったという対象は──ベルだ。
『眼球を喪失し、人生の閉ざされた者。我と契約すれば、その命を永らえさせよう』
正確には、ベル自身の命が実際に永らえるわけではない。
オルクスの呪具としての時間を、契約することで彼女に支払うのだと呪具は説明した。
『対価は名前と命、そして死だ』
「名前……」
契約しなければ、遠くないうちにベルは失血死するだろう。
しかし契約すれば名前を捨てる事となる。
もうベルと呼ばれることも──
(でも……皆……)
応えの無かった姉妹達。
彼女たちがもう呼べないのであれば、ベルの名を呼んでくれる者はいないだろう。
何より。
(このまま死ぬより……いいよね……)
どうせ死んだって、名を呼ばれることはないのだから。
『……対価を受け取ろう』
頷いたベルを前に、オルクスは静かに呟いた。
使い物にならなくなった眼球の代わりに、眼球を模した儀式呪具が少女の眼窩へ収められる。
『我が契約者殿よ。名前がないのは不便だろう?』
名前の一部──アケディアの名を貸すと言うオルクス。
少女は俯いた。その両眼から、血の涙はもう零れない。
「…………呼ばれることがあるのでしょうか?」
応えのない姉妹達。おそらく助からなかったのだろう。少女自身も、オルクスと契約を交わさねば死んでいた。
もう捨てた名を呼ぶ者もいない。この先も、少女を呼ぶ者などいないのではないか。
しかし。
『心配は杞憂だと思うぞ?』
どこかオルクスは確信を持っているような物言いで、少女に『アケディア』の名前を貸し与えたのだった。
姉妹達もまた、同じような運命へ巻き込まれていた。
しかしそれを知るのはもう少し後の事。
この夢では見ない出来事だ。
●夢から現へ
ゆっくりと、意識が浮上していく。
溶け合わさっていた夢と現の境界線。それが輪郭を持ちはじめ、夢の終わりを告げた。
『……え、……た……よ』
現実へ近づくたびに聞こえてくる声は鮮明になっていく。
『起き給えよ、我が契約者殿』
「……オルクス」
呼びかけていた呪具の名を呼び、アケディアは小さく息を吐きだした。
そこは抗争の起きていた場ではない。
姉妹達と住み、経営している自宅兼店舗──七曜堂。
その受付でのんびり来客を待っていたのだが、すっかり居眠りしてしまっていたらしい。
夏の茹だるような暑さを過ぎ、少しずつ季節は変わり始めている。その心地よくなってきた気候ゆえだろうか。
「…………懐かしい夢を見ました」
目を開くことなく、アケディアは小さく呟いた。
『一応仕事中のはずだが?』
たまに自らで来客を迎える事もあろうが、概ねはそうだ。
「……オルクス」
『なんだ、我が契約者殿』
アケディアは夢の内容を思い出しながら口を開いた。
「感謝していますよ、オルクス」
『…………そうか』
一瞬、間があった。
返事は平常通りを装うが、それでも僅かな動揺が垣間見える。
けれどアケディアはそれを言及することなく。
「…………おやすみなさい」
また微睡もうとするアケディア。しかしオルクスから静止の声は上がらない。
そう、彼女が眠ってしまったのは気候のせいでも何でもない。
『来客があれば起き給えよ、我が契約者殿』
これが七曜堂の──オルクス・アケディアの日常だ。