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“幸福”は食卓に宿る
イラストSS
<<とくべつな日>>
早めの昼食と部屋の飾り付けを終え、男――リチャード・ハルトマン(p3p000851)はほっと一息ついた。
焼きあがったケーキを取り出すと、部屋に甘い香りがした。
一休みしたい頃合いかもしれないが。
「こりゃ思ったより大がかりだな」
呟き、机の方へ視線を移せばアルト(p3p004652)が、その大きな大きな手で一生懸命に絵を描いていた。
この日そんな彼女のローズレッドの瞳に映るのは、きっと『いいこと』なのであろう。
まだ火が灯っていないキャンドル。色紙や花、乾燥させた果実が部屋を彩っている。
どちらかといえばアルトを喜ばせる為の風合いにも見えるが、それはそれ。少女はと言えば無心とも思える表情で作業を続けていた。悪戦苦闘。とても頑張っている。
そんな様子を眺めながらリチャードもエプロンを整える。後は今夜の料理を仕上げねばならない。
まだまだ午後の戦いは長いだろう。
ほどよく冷めた鍋の中には肉と野菜が居る。
漁師から譲ってもらったこの鹿肉は赤味が強い肉だ。やはり赤ワインのシチューがいいだろう。
そう考え昨夜からニンジン、セロリ、タマネギ。エシャロットにリーキ。それからニンニク。いくらかのハーブとスパイスにブランデー。たっぷりの赤ワインを加えて寝かされたものだ。
この作業もまた別の意味でひと手間ではあったのだが、そちらはさておき。
ともかく今朝、それらを取り出し改めてバターで炒めてから、ブイヨンと共にじっくりと煮ていたのである。
その後いったん休ませて、そろそろ溶けだした肉汁と野菜の旨味が、ほろほろの肉へと戻った頃合いだろうか。
鍋を再び火にかけ、弱火でコトコトと煮詰めていく。ひと手間。またひと手間と。肉の癖を調整し、香りとうま味を引き出す。中々の手間だがおいしさには代えられない。
こちらはこれで良いだろう。
オーブンを覗けば根菜や芋に香味野菜、それからサクサクに焼きあがりつつあるビスケットへと、ローストビーフがしたたる肉汁を一滴一滴ゆっくりと届けている最中だ。
ここで火を落としてやり、余熱でじっくりと。中は綺麗なロゼになってくれるだろう。
上質な赤身の風味が待ち遠しい限りだ。
気づけば窓から西日が黄金の光を投げかけていた。
そろそろパンを焼く準備に取り掛かりたい頃合いだが、前菜の用意もしなければならない――
「ぁ……ぇと、かけた、よ」
そんな控えめであどけない声がした。
「おう、なんだ。お疲れさんな」
少女の努力をひとまずキャンディで労ってやるが、机に成果物は見えない。
「見ていいのは……まだ、だから……」
そう言って視線を逸らす少女。見破られていたか。
ならば後でのお楽しみとしよう。なにも減る物や伸びる物ではない。
さて準備ではあるが。
「ちょうどいい」
思案を中断していたリチャードが一つ閃く。
「アルトの手なら早くこね上がりそうだな。手伝ってくれるか?」
「がんばる、から……」
真剣に頷く少女は丁寧に爪を洗い、ふっくらとした寝起きのパン生地のガス抜きに取りかかる。
「じゃ、頼んだぜ」
お願いしてみたものの、少女は少女でそれを成したいという想いもあるのだろう。素直で少しばかり頑固な――良い子だ。
鍋とオーブンの様子を確かめながら、リチャードは一つ頷いた。
後はこねて形を整えてもらえば大丈夫そうだ。
「……さてと」
大人がやらねばならない仕事も沢山ある。
特に重要なのは半量程まで煮詰まった鍋である。焦がしては元も子もない。ここからが重労働だ。
いったん肉を取り出し、崩れかけた野菜はペーストに。別の野菜を軽く炒めて、肉、スープと合わせる。
ここからまた軽く煮込み、小麦とバターを炒めたルゥを加え、味を調えて馴染ませる。
調理と平行して使った道具をこまごまと片づけつつ。そうこうしているとアルトがパンの生地をちぎって整え、窯へ届けてくれた。
「ありがとな」
そんな言葉に少女は微かにはにかんだ。
仕事を終えた彼女へ、次にお願いしたのはデザート作りのお手伝いである。
新鮮なパイナップル、マンゴー、オレンジ、アセロラ、パパイヤにバナナ。今朝の市場に海洋から届いたという夏の果物を一口サイズにカットして渡す。
一品目は泡立てた生クリームと共に、先ほど焼き上がり寝かせていたケーキと合わせてもらおう。
「頼めるか?」
「やって、みる……ね」
二品目は先ほどカットした果実の残りだが、今度は残りの生クリームと、先ほどまでの調理で余った卵白を使うのだ。
形を整えるために斬り落とした先程のケーキ、そのスポンジの欠片と合わせれば、こちらはムースケーキに早変わりする。
「……すごい、ね」
「だろ?」
そして三品目のジュレ。そうしたらラムや砂糖、果汁にリキュール。それらと共に熱したゼラチンを流し込む。これは冷まして氷箱へ。食後頃にはよく冷えて固まっている筈だ。後で荒く砕いて少々残った果物と共に並べて。ホイップを彩りミントを乗せれば出来上がり。
もう一息だ。
ほの暗くなった部屋にランプが灯り――そろそろ前菜を処理する頃合いであろう。
エビの頭と殻を外して背ワタを丁寧に抜く。白ワインに浸して塩コショウの下味をつけて粉をまぶす。
それをフライパンの上で薄く温まったオリーブオイルへ。次々に並べる度に、ジュっと小気味よい音が聞こえる。
赤く色づき外はカリカリ、中はぷりぷりに。
シチューにローストビーフに、このエビと。ダイニングに漂う香りがそろそろ強い空腹感を誘ってくれるが、もうひと踏ん張りせねばなるまい。
更にはパンの焼きあがる香りまで漂ってきた。
「いく?」
「いや、ありがとな。野菜を頼めるか?」
これは大人が取りに行こう。
夏の太陽を浴びて、真っ赤に熟したトマトをアルトは水から引き上げる。
水滴が張り詰めた外果皮を滑り落ちた。
少女から受け取った瑞々しい果肉にするりとナイフを入れて。同じくスライスしたモッツァレラチーズと共に並べ、皿ごと氷で冷やしてやる。
後はオリーブオイルに黒コショウ。ほんの少々の岩塩。新鮮なバジルを添えればフレッシュなカプレーゼの出来上がりである。
それからサラダだ。摩り下ろしたニンニクを塩コショウ、レモン果汁、オリーブオイル。ペースト状に潰した隠し味のアンチョビ。これを黄鮫亭秘伝のソースと合わせ、ドレッシングにして寝かせる。
水から引き上げたのはたっぷりのロメインレタスだ。水気を取りちぎってゆく。
後で先ほどのエビを乗せ、摩り下ろしたパルメザンチーズやカリカリのクルトンと共にトッピング。先ほどのドレッシングをかければシーザーサラダの出来上がりだ。
よし。間に合った。
並んだ料理の数々はかなりの量で――
「ちょっと作りすぎたかな」
微かに苦笑を浮かべたリチャードへ。
「きょうは、何か、とくべつな日……?」
首を傾げるアルトに向けて。
「あぁ、今日は俺とハルパパが出会った日なんだよ」
そろそろもう一人の『パパ』がお腹をすかせて帰ってくる頃だ。
灯りを落としてパパと娘が待ち構える。
さあ。クラッカーを握って闇の中へ隠れろ。
五分だろうか。十分だろうか。
今か今かと息をひそめる二人の待つ家へ、靴音は近づき――
――
――――幸せな団らんが待っている暖かな家へ。
今。扉が開きバニラが香る。